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青森県立郷土館ニュース

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現存最古級の津軽領国絵図

津軽の遺産 北のミュージアム 第10回

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正保の「陸奥国津軽郡之絵図」(貞享二年の写し)=当館蔵


第一級の歴史資料
 徳川幕府は260年余の治世の中で数度、諸国の国絵図(くにえず)を徴収した。そのうち、幕府が初めて作成基準を示した正保(しょうほう)国絵図と、規格の統一化をめざした元禄(げんろく)国絵図は重要で、それぞれ「古国絵図」「新国絵図」と呼ばれ、利用される機会も多かった。国絵図は正本(清絵図)と副本(控図)をつくり、正本を幕府に提出するのが通例だったから、国元に副本が残っていることが多い。
 青森県立郷土館が所蔵する「陸奥国津軽郡之絵図」は正保国絵図の関連絵図で、副本の忠実な写しである。絵図の裏書により、貞享2年(1685)に作成されたことが分かる。津軽領の正保国絵図は、正本が正保2年(1645)に幕府へ提出されたが、これはすでに焼失してしまった。さらに国元にあるべき副本も、正保国絵図からほぼ半世紀後につくられたはずの元禄国絵図も発見されていないので、今のところ、この「陸奥国津軽郡之絵図」が最も古い津軽領国絵図といって良い。17世紀前半における津軽地方の景観を知るビジュアルな資料としても貴重である。


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津軽半島のアイヌ集落


描かれたアイヌ集落
 「陸奥国津軽郡之絵図」の中にアイヌ集落が表現されていることは、よく知られている。津軽半島に2カ所、夏泊半島に3カ所の計5カ所に、「犾村」「狄村」(えぞむら)の表記がある。
 江戸時代、蝦夷地から北東北にかけて広くアイヌが居住していた事実は、さまざまな記録で確認できる。例えば盛岡藩家老席日誌(雑書)の寛文5年(1665)7月15日条には、田名部から3人のアイヌが盛岡へやってきて藩主に謁見したとあり、弘前藩庁日記(国日記)にも、アイヌが熊撃ちをして褒美をもらったという記事が随所に見られる。天明8年(1788)に津軽を訪れた比良野貞彦が「奥民図彙」(国立公文書館蔵)に描いているように、津軽の農民生活にはアイヌが用いた衣服(アットゥシなど)や漁具が入り込んでいた。現代人が考える以上に、和人とアイヌは身近な隣人として共存していたと言えよう。

和人とアイヌの対立
 しかし、このような関係は、一朝一夕につくられたものではない。時には厳しく対立し、衝突する場面もあった。交易・漁業・労役をめぐって、和人がアイヌから搾取するケースもあり、そうした和人への不満が一気に噴き出したのが、寛文9年(1669)6月、蝦夷地南部で起きたシャクシャインによる和人襲撃事件、いわゆる「寛文蝦夷蜂起」である。
 事の発端は、シベチャリ(静内)の首長カモクタインと、ハエ(門別)の首長オニビシとの対立にある。両者は常々、漁場・狩猟場をめぐって争っていたが、オニビシが、カモクタインを殺害したことで、緊張が高まった。カモクタインの姉に「弟の仇をとって」と頼まれたシャクシャインは、オニビシを追い詰めるが(「津軽編覧日記」三)、松前藩の仲介により和談を強いられ、いったん退いた。しかしシャクシャインは、けっきょくオニビシを討ち果たしたので、松前藩の面目は潰れ、事態はアイヌどうしの対立から、アイヌと和人の対立へと変化していった。

現地情勢は複雑怪奇
 和人と比較的近い関係にあったオニビシ側は、松前藩に武器や食料の支援を要請した。しかし、穏かな事態収拾を望む松前藩はこれを断り、曖昧な態度を取り続けた。そうした中、オニビシ側が松前藩に送った使者ウトウが不審死を遂げ、「松前藩に毒殺された」との風聞が広まった(「津軽一統志」巻十上)。


 いくら頼んでも味方してくれないし、その上ウトウを毒殺されて、もはや松前殿はあてにできない。敵も同然だ。


と意気巻くオニビシ側の様子を見て、シャクシャインは和人襲撃を持ちかける。この時、シャクシャインは64歳。「アイヌとしての戦い方をよく知る者」と、「津軽一統志」は記している。

1枚の書状
 松前藩が幕府に対して報告を行ったのは7月13日だが、近隣の弘前藩・盛岡藩・秋田藩では事件の直後からいち早く警戒を強め、松前藩の要請がありしだい、派兵できる態勢を整えていた。
 青森県立郷土館が所蔵する山田家文書の中に、弘前藩四代藩主津軽信政(越中守)が松前藩5代藩主松前矩広(のりひろ、兵庫守)に宛てた、寛文9年(1669)9月20日付の書状がある。


 そちら様もご無事で何よりです。当家の杉山八兵衛(吉成)はまだ松前に到着していないようですが、先に蝦夷 地に遣わされた八左衛門(松前泰広)殿のご意向のまま、何用にもお役立て下さい。当家の者に対する心遣い、ありがたく存じます。


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 弘前藩は3,000人規模の動員を計画し、9月7日、杉山八兵衛が第一陣700人を率いて、鰺ヶ沢湊を出帆した。杉山は8日朝には現地に到着していたのだが、江戸に居る津軽信政はまだ、そのことを把握していない。それがかえって、江戸~弘前~蝦夷地の距離を実感させてくれる。
(青森県立郷土館主任研究主査 本田伸)

一口メモ
「国絵図」

 徳川幕府が諸藩に作成させた公的絵図。慶長・正保・元禄・天保の4度徴収された。縮尺は6寸1里(21,600分の1)。青森県立郷土館所蔵の「陸奥国津軽郡之絵図」は、393×488センチと巨大なものである。

※ この記事は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年5月21日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-20 13:13 | 北のミュージアム
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