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青森県立郷土館ニュース

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淡谷のり子生誕100年

津軽の遺産 北のミュージアム 第32回

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昭和53年『淡谷のり子という女』(緑の笛豆本116 県近代文学館蔵)


貫き通す生き方
 『淡谷のり子という女』と題した、手のひらサイズのかわいらしい本がある。著者は、青森県の政治・文学・美術界に大きく貢献した淡谷悠蔵(1897~1995)。のり子の10歳上の叔父である。彼はその中で、のり子の気質のことを「からきず」と言っている。
 また、似たようなニュアンスで「じょっぱり」だとも言っている。
 悠蔵によると「じょっぱり」は、「正しいと思う自分の判断を言い張るだけでなくて、間違っていたことに気がついても、いったん言ったことはあくまでも言い張る」ことだという。つまり、強情だというのだ。
 それに対して「からきず」は「判断以前のもの」、善い悪いと思う前の「カンとくる感情」だという。いやなものはいやなのだという、考える以前の心の反応と言えるものだろうか。それだけに「案外純粋で爽快なものであることがある」とも、悠蔵は言う。
 昭和を代表する歌手淡谷のり子(1907~1999)は、戦時中、どんなに強制されてもモンペをはかず、細い眉を描き、濃い口紅をつけ、美しい衣装を身にまとってステージに上がった。「戦争という大きな怪物のために、自分を失いたくない為であった」と、のちにのり子は語っている。まわりはどうであれ、自分を貫き通す「からきず」の精神が、ここにあらわれていた。

変転する運命
 のり子の生家は「大五阿波屋」という呉服屋で、明治~大正期における青森屈指の豪商であった。のり子が生まれた頃は、30人を超す奉公人を抱え、店先はいつもにぎわっていた。父彦蔵が商売を継ぎ、のり子は祖母まつに溺愛されて育つ。まつには彦蔵を含め、13人の子がいて、悠蔵は13番目、末っ子だった。
 しかし、明治43年(1910)の青森大火で店は焼失し、淡谷一族の運命は変転する。彦蔵は再建を目指して商売に奔走したが、羽振りの良い時代から続いていた放蕩(ほうとう)は一向に止まず、店はけっきょく人手に渡ってしまう。
 黙って夫に従ってきたのり子の母みねは、古いしきたりとしがらみに縛られた「家」を捨て、故郷を離れる決意をした。2人の娘を連れて上京したみねは、娘たちに音楽を学ばせた。自分の力で生きていく手段を身につけさせたいという強い願いは、彼女自身の半生から生まれたものだった。
 昭和4年(1929)、のり子は、東洋音楽学校(現東京音楽学校)を首席で卒業し、声楽家としての一歩を踏み出した。しかし、家計は苦しく、生活のためにと、流行歌手道を選ぶ。優れた歌唱力と、ステージでの圧倒的な存在感が人々を魅了し、「別れのブルース」や「雨のブルース」の大ヒットによって、歌手としての地位を不動のものにした。

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悠蔵とのり子(個人蔵)


のり子と悠蔵
 一方、「商人に学問はいらない」と言われながらも書物を愛した悠蔵も「家」を飛び出し、土を耕す生活に自らを投じていた。日々食べるものにさえ苦労していたその時に、のり子から悠蔵に手紙が届く。「お金を貸してほしい」との訴えだが、彼にも余裕はなかった。「死ぬ気になれば何でもできる」「貧しいのはお前ばかりではない」と返事をするしかなく、再び届いたのり子からの手紙には「絶交だ」とあった。
 兄のように頼りにしていた悠蔵に裏切られ、強い憤りを感じたのり子は、画のモデルをして生活を支えた。この時の意地の張り合いで2人の間にできた溝は、なかなか埋まらなかった。しかし、互いに苦しい年月を過ごした後でのり子は、悠蔵の「からきず」の思いを知った。そのことで2人の間には、「似たものどうし」とまで言われる深い信頼関係が築かれた。
 悠蔵は歌手として「からきず」を通すのり子を、温かく見守り続けた。「淡谷のり子には、せいいっぱいわがままいわせて、好きな歌うたわせて貰いたいなあと思う。それで時代おくれになるならなったでいいし、はやらなくなってほろびたらほろびたっていいと思う。人がいつか死ぬように、歌だって、人気だっていつかは消えることもある。ジタバタするでない。何処かの誰かの胸には残って行くだろう」(『淡谷のり子という女』)と、のり子への思いを綴っている。
 のり子が生まれて、今年で100年。県立郷土館では来年1月20日まで、「生誕100年記念 淡谷のり子展」を開催し、青森市に寄贈されたのり子の遺品を中心に、その生涯をたどる。自筆の歌詞ノートやステージ衣装に加え、悠蔵の日記や著書を交えて、「素顔ののり子」を追うことにしている。
(青森県立郷土館学芸主査 太田原慶子)

一口メモ
淡谷悠蔵
青森市出身。文学者、政治家。トルストイの人道主義に共鳴し、新城村(現青森市)で農業をはじめた。農民運動に関わる一方、雑誌「黎明」「座標」を創刊するなど、県内の文学界に大きく貢献した。元社会党代議士。

※ 以上の文章は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年12月3日(月)付け陸奥新報に掲載された記事を転載したものである。
by aomori-kyodokan | 2007-12-10 13:46 | 北のミュージアム
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