人気ブログランキング |
ブログトップ

青森県立郷土館ニュース

kyodokan.exblog.jp

土曜セミナー配布資料「本県が生んだ無名の偉人・ 佐々木多門とその周辺の人々」

平成23年10月22日(土)
ゲストキュレーター:佐々木慶紀

b0111910_15392396.jpg●主な経歴
青森県東津軽郡平内町出身
慶応 2年(1866年)生
昭和12年(1937年)没

帝国大学法科大学政治学科撰科、同志社普通学校教授、第二高等学校教授、日本銀行調査局、学士会客員、高橋是清(総理大臣、大蔵大臣、日銀総裁)顧問、床次竹二郎(内務大臣、逓信大臣、鉄道院総裁)顧問、The Times東京通信員




●執筆関係
『中等教育 経済学教科論』(1901年)
『最近十年間に於ける経済学説』(1901年)
『経済学派比較評論』(1907年)
『The Recent Economic Development of Japan』(1915年)
『日本銀行の沿革(英語版)』(1921年)

●人 物 像
 大学予備門への進学を目指して上京した多門は、薩摩人のいじめと津軽弁コンプレックスに遭い、当時通っていた予備校・共立学校(校長・高橋是清)を辞めて、いったん帰郷した。

 英気を養い再び上京した多門は、外国人居留地のあった築地に通いつめて独学で英語を習得。その際にカナダ・メソジスト教会の宣教師たちと親交をもち、彼らの運営する東洋英和学校(現・麻布高校)に一期生として入学した。

 そこで抜群の成績を修めた多門は、帝国大学法科大学政治学科に進学し、金井延に師事して経済学を修めた。帝大時代には東洋英和学校の教壇に立ち、そこで内村鑑三の面識を得て意見交換する仲となった。また、高田畊安と大西祝が創設した“帝大基督教青年会”の草創期のメンバーに名を連ね、キリスト教の活動に奔走した。

 帝大卒業後は、同志社、奈良県尋常中学校、第二高等学校(現・東北大学)で教壇に立った。第二高等学校の教え子には、吉野作造、金田一京助、結城豊太郎等がいる。特に大正デモクラシーの立役者・吉野は、進路選択の際に多門の影響を強く受けている。

 新進気鋭の経済学者として知られるようになった多門は、高橋是清に経済に関する知識と英語力を買われ、日本銀行に特別入行した。日銀では調査統計機関の最高権威、調査局に所属し、そこで「英語の総大将」として活躍。欧米の日本経済に対する偏見を払しょくするために日銀が請け負ったプロジェクト『The Recent Economic Development of Japan』の編纂にあたっては、プロジェクト・リーダーとして英文を執筆した。同書は日本経済の全てを網羅した大作として世界中で好評を博し、ロンドンタイムス(正式名称“The Times”)は、「日本経済に関する最も有益且つ百科事典のような書物」と賛辞をおくった。

 多門は高橋是清と床次竹二郎の私設顧問にも就任し、「陰の是清」、「床次の懐刀」とも呼ばれた。両者から絶大な信頼を寄せられた多門だが、不仲の大物政治家の間に挟まれて、その関係を調整するのに苦労した。

 1920年代初頭からは、日本人として初めて海外主要紙の通信員となり、ロンドンタイムスに日本の政治、経済に関する論説記事を執筆した。当時、タイムスに執筆を依頼されるということは、世界でも指折りの文筆家である証だった。

 一番の語り草は満州事変後に書いた論説。切実な日本の立場を主張したその記事は、リットンが国連で話題にするなど、各国議会でも取り上げられた。また、他の論説では国内の国家主義、軍国主義勢力に対しては痛烈に批判を浴びせ、その結果、軍関係者が家に貼り付くようになった。

 当時、日本人の書いた論説が海外主要紙に掲載されることは極めて稀なことであったが、多門は、実に10年以上の長きにわたって日本の実情を世界に伝えた。これまで顧みられることがなかった多門の業績は、今少しずつ明らかになってきている。

当日使用したプレゼンの中身がこちらでご覧いただけます。
by aomori-kyodokan | 2011-10-22 15:40 | 土曜セミナー
<< 写真で見るあおもりあのとき 第... 写真で見るあおもりあのとき 第... >>