↑鉱山事務所(手前)と社宅(後方)、右上が小学校(昭和30年代)
↑精鉱はワイヤーケーブルで青森市野内へ運ばれ、貨車や船舶で出荷された。(昭和30年代)
上北鉱山は、旧天間林村天間舘(上北郡七戸町)で操業していました。大正初期には、2,3の業者が採鉱していましたが、昭和10(1935)年に三井栄一が硫化鉱床を発見し本格的に操業します。翌年には日本鉱業株式会社に経営を委任しました。日本鉱業は茨城県で「日立鉱山」を創業したのが始まりで、国内はもとより、中国や朝鮮半島、台湾、フィリピン諸島等の鉱山も買収開発しました。上北鉱山もその一つで、戦前はわが国第一の銅山として軍需物資補給の要請に応え、「神風鉱山」と呼ばれました。
戦後は、従業員の子弟が通う天間林村立上北鉱山小学校・同中学校や、鉱山従業員が学ぶ県立七戸高等学校上北鉱山分校(定時制)が開校しました。最盛期の人口は三千四百名に及び、手術室やレントゲン装置を備えた病院、社宅、独身寮、生活用品供給所、共同浴場、理髪店・美容院、映画や演劇を上演する会館等の諸施設がありました。
東北本線乙供駅まで軌道によるガソリンカーが運行したほか、夏季には青森駅から市営バスが幸畑、田代を経由して1日3往復し、冬季は東北本線千曳駅まで雪上車が1日2往復しました。
しかし、新鉱床が発見されなくなると鉱量は激減し、昭和46年9月にはついに坑内採掘作業が休止されました。
なお、県立郷土館で開催中の地域総合展「十和田湖・八甲田山」に、昭和30年代当時の写真や上北鉱山小学校の通信簿等を展示しています。
(青森県立郷土館・竹村俊哉、写真提供小田嶋徳次氏)
※青森県立郷土館では、県内の行事や街並み、農民の暮らしぶりなどを撮影した古写真を、広く県民の提供を受けるなどして収集しています。当館がこれまで集めた写真の一部を紹介しながら「ちょっと昔のあおもり」の記憶を52回にわたってたどってみます。(この項は、東奥日報社連載記事を転載したものです。)
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