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青森県立郷土館ニュース

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青森県が生んだ先人たち~愛用した品々と遺した言葉

津軽の遺産 北のミュージアム 第5回

 青森県立郷土館では、明治時代から現代にかけて、各方面で活躍、優れた業績をのこした青森県ゆかりの人物たちを紹介している。
文学や芸術、医学や科学技術、政治や教育など様々なジャンルで活躍した本県ゆかりの先人達。そうした先人達をより身近に感じることができるような資料を探し、展示している。

 今年生誕百年を迎えた歌手淡谷のり子(青森市出身 1907~1999年)。青森市の裕福な商家に生まれ、恵まれた少女時代を送った。その後、母と妹と上京、苦労しながら本格的な声楽を学ぶ。その歌唱力で将来を期待された逸材だったが、経済的な事情から流行歌の世界へ転向。「別れのブルース」、「雨のブルース」が大ヒット、ブルースの女王と呼ばれた。
戦時中も化粧をして華やかな衣装に身をつつみ歌い続けた。彼女にとって歌うことは生きることであり、闘いであった。慰問に訪れた彼女の歌声を今も記憶に残し、その記録をたどりたいと話す人もいる。しかし、残念なことにまとめられている資料はなく難しい。
青森市が所蔵する淡谷のり子の様々な資料。大量の楽譜やレコード類の他にやはり目をひくのは華やかな衣装やアクセサリの数々。大きくて首を振れば落ちそうなイヤリングや指輪、ビーズがちりばめられた小物入れ、香水の香りがほのかに漂うスカーフやハンカチ。ステージでは衣装にかくれて見えることがほとんどなかったであろうハイヒール。日常でも美しく華やかなものを好んだという。


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郡場寛が愛用したタイプライター



 郡場寛(こおりば かん・青森市出身   1882~1957年)は世界的な植物生態学者。酸ヶ湯温泉の基礎を築いた両親をもち、八甲田の自然に親しむ中で植物へ関心を高めていった。母ふみ(1856~1925年)は、八甲田の山々を歩き、採集した植物を息子に送った。寛は研究を進め、現在の京都大学教授、弘前大学学長などを歴任した。多忙な日々を過ごす寛が常に持ち歩いたとされるタイプライターがある。大切に使われた愛用品である。
学長となってからも学生達とともに八甲田の山々を歩いた。研究者として広い専門分野をもち、学生達に慕われた教育者でもあった。


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野澤如洋が家族らに宛てた葉書




 日本画に独自の世界を築いた野澤如洋(のざわ じょよう・弘前市出身 1865~1937年)が家族らに宛てた葉書がある。
幕末、弘前藩士の家に生まれた如洋は、幼い頃から家族を驚かすほどの絵の才能をみせていた。故郷を離れ、日本画壇の中心地であった京都で各種の展覧会に出品、連続入選を続け、その実力は高く評価された。1907年に発足した文展(文部省美術展覧会)の審査員に推せんされたが、辞退する。中国で水墨画の本質に触れ、さらに欧米諸国を歩き、異国の文化や風土に刺激を受けながら絵を描き続けた。葉書には如洋の日常が描かれている。自身の後ろ姿も描かれ、味わいがあり、作品とはまた違った魅力を放つ。


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版画誌「青森版画」に寄せられた棟方志功の作品と封筒



 世界的版画家棟方志功(青森市出身 1903~1975年)は、中央で活躍するかたわら、地元青森の版画誌「青森版画」などにたびたび作品を寄せた。また表紙のデザインを手がけたりした。
 志功自身が必要な点数を刷り、作品を送ってきた。作品が入れられてきた封筒も志功の手作り。形もその時々で異なっている。それぞれがユニークな、世界でただ一点の志功の手になる封筒なのである。そして、同誌創刊十周年を祝って事務局に寄せられた葉書には、青森県の版画の普及と発展を願って後輩達を励ます言葉がならんでいる。
(青森県立郷土館学芸主査 太田原慶子)

一口メモ 
郡場ふみ現在の弘前市出身。酸ヶ湯温泉の基礎を元弘前藩士の夫白戸直世とともに築く。5人の母。寛は二男。寛の研究を側面から支えた。


この記事は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年4月9日付け陸奥新報より転載したものである。
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# by aomori-kyodokan | 2007-09-20 14:08 | 北のミュージアム

年越しの夜に神招く

津軽の遺産 北のミュージアム 第4回


 津軽地方に残る文化財には、法律で保護することを定められた有名な資料だけではなく、一般にはあまり知られていないが、大変貴重な資料が数多く存在する。
 また、それらのなかにも、古文書や古い道具、工芸品、金石文、建物などの「有形」と、伝統的な行事や習俗などの「無形」の資料がある。
 どちらも、わたしたちのふるさとの歩みを知るための重要な文化財であるといえよう。そのなかの無形の文化財として、年越しに家々を訪れる神々を紹介したい。

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写真1 A家の主人が玄関から、見えない「山の神サマ」を招き入れる  小山隆秀撮影


 弘前市のA家では代々、毎年12月31日の年越しの夜になると、見えない神を玄関から座敷へ招き入れる。「山の神サマ」だという。30日から、家の神棚や床の間、屋内の各所、小屋、井戸、蔵、便所などにお供えを飾り、新年を迎える準備をする。これは、市内の他家だけでなく、他地方でもよくある習俗で、それぞれ、屋内の神々が宿る場所を意識していた名残りではないかと考えられる。


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写真2 A家の座敷で「山の神様」にお膳をすすめる主人 小山隆秀撮影


 ところがA家が近所の家々と大きく異なる点は、年越しの晩になると、床の間がある座敷の隅に、年越しの料理を盛った、二つのお膳を用意することである。その日の夕方、玄関の戸が開けられる。式台(しきだい)には家の主が座り、外の闇へ向かって告げるのである。「どうぞ、お入りください」と。
 目には見えないが、「山の神サマ」が来たのだ。半世紀前までは、家の前の道路まで出迎えて、赤子のようにヒモで背負うまねをして連れてきたという。
 家に入った「山の神サマ」は、座敷の二つのお膳へと招かれる。「どうぞお座りください、ゆっくりとおあがりください」と歓待されるのだ。その間、当主は神棚と仏壇を拝む。まもなく「お召し上がりになりましたか、足元を大事にお帰りください」と、主人は「山の神サマ」を再び玄関から送り出す。
 代々、年越しにA家にやってくる「山の神サマ」とは何者なのだろうか。家に来たらすぐに返されることや、「山の神サマに供えたお湯は、道路の真ん中に捨ててきた」というから、あまり歓迎される神ではなさそうだ。また、「床の間へ上げられると恐れ多くて困る神なので、部屋の隅に招く」というから、それほど高い神格ではないことがわかる。
 全国的な事例からすれば、この「山の神サマ」の送迎習俗は、他地方の「疱瘡神送り」と似ているのだ。疱瘡神(ほうそうがみ)は、恐ろしい病、疱瘡をもたらす神として、古くから全国で恐れられてきた。江戸時代の弘前藩でもたびたび疱瘡が流行ったが、災いのもととなる疱瘡神を、異界へ送り出す儀式をやった記録がある。
 奈良県や山形県では、A家と同じ作法で、年越しに家の当主が、疱瘡神を家へ招き入れ、供物を上げて返す家がある。実はA家の神棚には、さらに、風邪神サマ、ウチ神サマ、疱瘡神サマの3体が祀られてきた。これらの神々はふだん、家族を病から守り、家内安全を祈願する神だという。
 よって、年越しにやってくる「山の神サマ」は、もともとは神棚にいる風邪神や疱瘡神であったが、いつの時代にか交替してしまった可能性も考えられないだろうか。実は、このように年越しにやってきて、すぐ帰る小さな神々は、津軽の各地にいたらしい。
 1935年(昭和10年)頃まで田舎館村では、小正月1月15日の年取りに、A家のように疱瘡神と麻疹神を招き入れて帰す家があったという。


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写真3 B家の玄関で訪問する神へ供えられたお膳  渡辺真路撮影


 また、つがる市木造のB家でも、代々、年越しにやってくる見えない神がいて、家の戸障子を全部開け、玄関にお膳を用意し、もてなしてから帰している。この神の名は不明だという。同様の習俗は昭和30年(1955年)代まで、青森市内でもあったようだ。ほかにもご存じの事例があれば、教えて頂きたい。
 このように古くから日本各地では、年越しには豊穣をもたらす年神(としがみ)だけでなく、歓迎されない神もやってくるという信仰があった。
 これらの来訪神を送迎する習俗は、伝染病の恐怖に脅えたふるさとの歴史的な記憶を示す、見えない無形の文化財であるといえよう。
(青森県立郷土館研究員 小山隆秀)

○一口メモ
疱瘡(ほうそう)

近代医学以前、全国各地で大変恐れられた病。原因とされる「疱瘡神」を歓待して鎮め、異世界に送り返すと病気が治ると信じられた。

※この記事は陸奥新報社の承認を得て2007年4月2日付け陸奥新報より転載したものである。
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# by aomori-kyodokan | 2007-08-31 10:59 | 北のミュージアム

集団組織したマタギ

津軽の遺産 北のミュージアム 第2回
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写真1 目屋マタギの服装=森山泰太郎氏所蔵アルバムより

 山で狩猟を行う人びとをマタギといった。マタギの語源については定かでなく、狩猟用具に又木を使用するためであるとか、狩猟を意味するアイヌ語のマトキからきたといった説がある。津軽地方では西目屋村の「目屋マタギ」や鰺ヶ沢町赤石川流域の「赤石マタギ」がよく知られたマタギであった。その他に黒石市大川原などのマタギ集落があった。 これらのマタギは、狩猟を専門職としていたわけではなく、通常は山の田畑での農業や山仕事をしながら、その合間に狩猟を行ってきた。江戸時代には藩で保護をしてお抱えマタギとし、毛皮などを上納させる代わりに米などを与えた。戦時において鉄砲組に編入
させるためであったといわれる。
 マタギが狩猟の対象としたのはクマ、タヌキなどの獣類やキジ、ヤマドリなどの鳥類で、今では制限されているカモシカもかつては対象であった。とくにクマは重要な獲物で、毛皮や肉のほかに熊胆(クマノイ)は特に貴重であった。熊胆はクマの胆のうのことで生薬の材料として高価に取引された。熊胆のことを目屋マタギは「ユウタン」、赤石マタギは「カケカラ」と呼んでいる。

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写真2 目屋マタギの狩猟用具=森山泰太郎氏所蔵アルバムより

 マタギが使用する狩猟用具は、鉄砲、槍(タデという)、山刀(タテナタ、マギリなどという)などが主なもので、そのほか火薬入れ弾丸やマギリなどを収納する物入れなども持つ。マタギの服装は、冬期の狩猟が主だったので、毛皮の上衣(カッコロ)、毛皮の帽子や編み笠、毛皮の靴(ケリ)などであった。また、足にはカンジキをつけ、雪ベラを持った。雪ベラのことを目屋マタギはコナギといい、赤石マタギはコダラキという。

 狩猟の時期はクマの場合冬期が多い。津軽では春の出熊(冬眠から出てきたクマ)を主に狙う。シカリという頭を中心にしたマタギ組を組織し、追手と射手というように役割分担をして猟を行った。シカリは経験の深い指導力があることが条件で、組の中でおのずから決まっていった。
 狩猟の中でもクマの場合は非常に危険が伴った。最後の赤石マタギといわれ、約百頭のクマを獲った鰺ヶ沢町一ツ森の故大谷石之丞氏は、頬に大きな傷跡があった。これは、槍で熊と闘った際にクマの爪で顔をやられ重傷を負ったときのもので、よく死ななかったものだと述懐していた。
 マタギが山で狩猟する際には、山言葉もしくはマタギ言葉と呼ばれる言葉で話すのが慣わしであった。山言葉は各地のマタギによって異なり、赤石マタギの場合は、サルをシネカ、クマをイタジ、肉をサズミ、血をヘダレ、米をクサノミ、味噌をサネなどという。これらの中にはアイヌ語と共通するもの(マギリ、ワッカ等)が含まれているのは興味深いことである。
 マタギの組には厳しい戒律があった。これを破った者は冬の谷川で水垢離をとらされたという。例えば、山言葉をいわなかったり、山で口笛を吹いたりするなどの行為は嫌われたものであった。
 マタギが獲物を獲ったときには独特の儀礼を行った。これを、シオクリをするなどというが、その方法は門外不出とされ、外部の者にもらすと獲物が授からなくなるとされた。赤石マタギがクマを獲った場合、まず皮を剥ぐ。その皮を頭と尾を逆にしてクマの身体にかぶせ直す。これを逆さ皮といい、「頬の肉を串刺しにして山の神に供え」、といって秘密の言葉を口にして唱える(「法を唱える」という)。このような儀礼には、山の獲物は山の神からの授り物であるとか、獲物を神のもと(山)へ帰すという考え方が見られ、
アイヌの熊祭りと似ている。そして、マタギは山に入ると「山の神」の支配下におかれる。マタギの狩猟活動のほとんどは山の神に対する信仰と切り離すことはできない。

(青森県立郷土館 学芸課長 成田 敏)

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写真3 赤石マタギ最後のシカリ、故大谷石之丞=当館蔵

ひと口メモ
シカリ

 津軽地方の場合、八人から十人くらいの組織集団として熊狩りをする。その中でシカリと呼ばれる統率者が中心であり、そのほかコマタギ、料理係、ハツマタギなどがいて、それぞれ役割が決まっていた。シカリは絶体的な権限を持ち狩猟中はいっさいを指揮した。

※ この記事は、陸奥新報社の承諾を受け、2007年3月19日付け陸奥新報を転載したものです。
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# by aomori-kyodokan | 2007-08-24 16:34 | 北のミュージアム