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青森県立郷土館ニュース

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懐かしい昭和30年代

津軽の遺産 北のミュージアム 第9回

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家電製品が勢ぞろい-企画展会場の写真


わが家にテレビがやってきた
最近、昭和30年代を取り上げた本が書店の棚に多く見かけるようになった。また、夕日に映える建設途中の東京タワーが印象的な映画が話題となったり、昔の駄菓子屋を模した店も現れた。
 オート三輪、テレビのヒーロー、フラフープ等々は「団塊の世代」にとってはとりわけ懐かしい言葉であろう。
 この昭和30年代ブームにあやかり、昨秋、青森県立郷土館では特別展「わが家にテレビがやってきた―昭和30年代以降のくらしの変遷をたどる―」を開催し、思い出がいっぱい詰まった昭和30年代を振り返った。

三種の神器
 昭和20年代後半には東京地区においてテレビ放送が開始され、「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ・電気冷蔵庫・電気洗濯機などの家庭用電器製品が電器屋の店先に並び始めた。昭和34年の皇太子ご成婚直前にはテレビの受信契約数が倍増し、青森県でもこの年にテレビ放送が始まった。
 昭和30年代後半に「神武景気」が始まると、耐久消費財の生産が本格化した。テレビをはじめとする家電製品の登場により、人々の生活がこれまでにくらべて便利になり、またテレビから多くの娯楽を享受できるようになった。

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懐かしいお茶の間(再現)-企画展会場の写真


台所につづく四畳半
白黒テレビ、茶箪笥、ちゃぶ台といえば昭和30年代の茶の間を構成する代表格である。そしてのれんが下がった障子の向こうには台所が見えるのが一般的であった。
 茶の間はちゃぶ台を囲んでの食堂であり、子どもたちの勉強部屋でもあった。また、テレビを置いた家族団らんの場であり、夜はちゃぶ台の脚をたたんで片づけると寝室となる。茶の間はさまざまな使い道がある多機能空間であった。

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駄菓子屋の店先(再現)-企画展会場の写真


路地裏の記憶
 テレビや少年少女雑誌は、子どもたちの世界に大きな影響を与えた。男の子はヒーローごっこ、女の子は着せかえ紙人形やぬりえに夢中だった。
 学校から帰った子どもたちがおこづかいを握って急いで向かう先は近所の駄菓子屋である。商店街のお菓子屋さんやおもちゃ屋さんで売っているものは、比較的高価な物ばかりなのでおこづかいでは買えなかったのである。
 大通りから入った狭い路地裏は交通量が少なく、子どもたちの格好の遊び場であった。ビー玉・メンコ・ベーゴマなどで遊ぶ男の子や、ゴム跳びに熱中する女の子の元気な姿が見られた。
 紙芝居屋は路地裏の風物として欠かせないものであろう。太鼓や拍子木の音に誘われた子どもたちが集まると、そこには即席の野外劇場が出来上がる。2本の割りばしで水あめが白くなるまでこね回しながら、紙芝居屋のおじさんの名調子に聞き入ったのであった。

レジャーの時代

 休日の増加と労働時間の減少はドライブや家族旅行を中心としたレジャーブームを引き起こした。
 昭和30年に通産省(現、経済産業省)は「国民車育成要綱案」を発表し、4人家族が乗車可能な「国民車構想」打ち出した。この構想はいったん立ち消えとなるが、自動車メーカーのその後の開発努力により、マイカーの夢が実現することになったのである。また、観光地ではカメラを手にした人たちの姿が多く見られ、カメラブームも到来した。
 さらに、昭和31年には、『週刊新潮』が日本初の出版社による週刊誌として創刊された。それまでは朝日、毎日、読売などの新聞社によるものが中心であった。これ以後、各出版社が競って出版するようになり、週刊誌ブームとなった。

消費ブームの到来
 わが国の高度成長が始まった昭和30年代は、国民所得の向上にともない、耐久消費財を中心とする消費ブームがおこった。当時、弘前地方の買い物の中心地といえば土手町商店街であり、なかでも大正12年創業の「かくは宮川」デパートは、娯楽場としてにぎわった。昭和34年に弘前市から出された調査報告書によれば、人々はデパートに来ることをを一つの楽しみと考えており、
ショーケースの中の商品を見てだいたいの値段の見当をつけては、商店街の小売店で手頃な値段の商品を買い求めていると分析している。
昭和30年代は全国的にスーパーマーケットが現れた時期でもあり、販売経費の節減のためにセルフサービス方式が取り入れられた。弘前市では昭和33年に「主婦の店」が出店した。
昭和34年には「かくは宮川」デパートが県内で初めてパートタイマーを導入し、主に家庭の主婦を対象に採用した。このように、現在私たちが買い物で見かける光景は、この時期に始まったと言えるであろう。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

一口メモ
「三種の神器」
 皇位のしるしとして伝えられる鏡・剣・曲玉(まがたま)の三つの宝。転じて三種の代表的な日用必需品を指して使われる。

※ 以上の文章は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年5月14日(月)付け陸奥新報に掲載された記事を転載したものである。
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# by aomori-kyodokan | 2007-12-10 13:37 | 北のミュージアム

淡谷のり子展始まる

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 12月1日(土)から淡谷のり子展が始まりました。特別展示室中央に設けられた、ステージを模した展示台の上には、ミラーボールが取り付けられました。往年の舞台の雰囲気をお楽しみ下さい。

追記:ブログ『まるごと青森』(12/7(金)付)でも本展のご紹介を頂きました。ありがとうございました。
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# by aomori-kyodokan | 2007-12-01 09:00 | 企画展・特別展

銅版画の先駆者 今純三

津軽の遺産 北のミュージアム 第7回
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「自画像」(1932年〈昭和7年〉 石版画=当館蔵)


 青森にもようやく、新緑の頃がやって来る。冬期間の閉鎖的な生活を強いられて来た我々の関心は、一挙に海へ山へと屋外へとむけられるようになる。県外からも本県の自然を求めて多くの観光客が訪れるが、観光スポットの中でも、人気の高い所として八甲田・奥入瀬・十和田湖がある。この八甲田・奥入瀬・十和田の風景美は、昔から多くの芸術家たちの心を魅了し、優れた作品を生み出してきたが、その中に今純三がいる。
 今純三は、明治26年に弘前市の百石町に生まれた。津軽藩の御典医の家系であった今家は純三が高等小学校を卒業したのを機に、純三を医者にすべく、彼の勉学の為に一家で東京に移り住む。しかし大正12年の関東大震災に遭い家屋を失った今一家は、混乱の東京から純三を再び青森県に送り返すこととなった。この時、純三は30歳、医師ではなく国の主催する文展(文部省美術展覧会)、帝展(帝國美術院美術展覧会)に入選した実績を持つ新進気鋭の洋画家となっていた。
 純三が本県の美術界に及ぼした影響は非常に大きく、彼を抜きには今日にいたるまでの本県の美術の流れは考えられない程である。中でも、明治期に日本に導入された銅版画に、帰省後、青森市の造道にアトリエを構えてから、本格的にとりくみ、研究し、作品を次々に制作した純三は、本県というよりむしろ、日本の銅版画史に先駆的役割を果たした画家と言えるのである。

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奥入瀬渓流「阿修羅の流れ」(1935年〈昭和10年〉・銅版画・手彩色)=当館蔵


 純三が多数てがけた銅版画の作品の中に、ひと続きのまとまりのある作品群がいくつかある。例をあげると、1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)にかけて制作した計100点の「青森県画譜」、1935年(昭和10年)から純三がなくなる1944年(昭和19年)までの間に制作した計108点の「小品集」、1939年(昭和14年)から1944年(昭和19年)まで続けた雑誌「月刊東奥」の表紙画、昭和9年前後に制作した「奥入瀬渓流シリーズ」等がそれである。

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八甲田・奥入瀬・十和田湖の屏風完成予想図・六曲一双・右隻=当館蔵


 最後に挙げた「奥入瀬渓流シリーズ」は計9点からなる作品とされているのであるが、実は郷土館所蔵の今純三の作品群の中に、その完成予想図が残されている。
完成予想図は、実物の十分の一に縮小されて描かれた正確なもので、これによれば、もともとこの連作は奥入瀬、十和田湖、八甲田山をテーマにした48点の雄大な構想であり、最終的に、一扇に24㎝×34㎝の大きさのエッチングの作品を4点ずつ配する六曲一双の屏風仕立てであったことがわかる。さらに48場面の内容をみると、1~10番までが八甲田山、11~25番までが奥入瀬渓流、26~48場面までが十和田湖と3つに大別できる。この設定は、十和田湖へ入る東西南北の4つのコースのうちの、北からのコース、通称十和田北線と呼ばれる「八甲田-奥入瀬-十和田湖」のコースである。このコースは「山岳美、渓流美、湖水美」の3つを満喫できる為、「十和田ゴールドライン」とも呼ばれているものである。
 では、なぜ純三はここまで詳細な完成予想図を残していながら、9点の作品を制作した段階で中断してしまったのであろうか。その原因は、作品が銅版画の技法によるものであることが一番大きいと思われる。純三が考えた作品の1点は24㎝×34㎝の大きさで、エッチングとしてはかなり大型の部類に入る。銅版画は金属の表面を針のようなもので引っ掻いたり、薬品で処理して窪ませた細い溝にインクを詰め込み、プレスをかけてそのインクを写し取る版画の一技法であるが、その作業は大変な緊張感を伴い、根気と体力を要するものである。まして大型の銅版画の制作となると、なおさらである。この過酷ともいえる作業に純三の体は耐えきれずに病を得、ついには生死の境をさまようまでの状況となってしまったのである。
  純三がのこした奥入瀬の作品9点は、昭和初期の奥入瀬の神秘的で重厚な自然の魅力を余すことなく伝えてくれる傑作であるが、そのかげには自分の生死を顧みないほどの、すさまじい純三の仕事ぶりが隠されている。それはおだやかで優しい性格であったと言われる純三に秘められた、修羅の怒りにも似た激しい一面であり、芸術に対する純三の真摯な姿勢のあらわれであったのであろう。


(青森県立郷土館 学芸主幹 對馬恵美子)

○一口メモ
「青森県画譜
 純三の次兄は考現学を提唱した今和次郎である。兄の考現学採集に協力した純三は、次第に自らの作品にも考現学視点を取り入れるようになる。その代表作が「青森県画譜」で、昭和初期の本県の人々の暮らしがユニークな視点でとらえられ、美術としてだけではなく歴史的・民俗的にもすぐれた資料となっている。

※ この記事は、陸奥新報社より承認を受け、2007年4月23日付け陸奥新報から転載したものである。
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# by aomori-kyodokan | 2007-10-29 13:34 | 北のミュージアム