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青森県立郷土館ニュース

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銅版画の先駆者 今純三

津軽の遺産 北のミュージアム 第7回
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「自画像」(1932年〈昭和7年〉 石版画=当館蔵)


 青森にもようやく、新緑の頃がやって来る。冬期間の閉鎖的な生活を強いられて来た我々の関心は、一挙に海へ山へと屋外へとむけられるようになる。県外からも本県の自然を求めて多くの観光客が訪れるが、観光スポットの中でも、人気の高い所として八甲田・奥入瀬・十和田湖がある。この八甲田・奥入瀬・十和田の風景美は、昔から多くの芸術家たちの心を魅了し、優れた作品を生み出してきたが、その中に今純三がいる。
 今純三は、明治26年に弘前市の百石町に生まれた。津軽藩の御典医の家系であった今家は純三が高等小学校を卒業したのを機に、純三を医者にすべく、彼の勉学の為に一家で東京に移り住む。しかし大正12年の関東大震災に遭い家屋を失った今一家は、混乱の東京から純三を再び青森県に送り返すこととなった。この時、純三は30歳、医師ではなく国の主催する文展(文部省美術展覧会)、帝展(帝國美術院美術展覧会)に入選した実績を持つ新進気鋭の洋画家となっていた。
 純三が本県の美術界に及ぼした影響は非常に大きく、彼を抜きには今日にいたるまでの本県の美術の流れは考えられない程である。中でも、明治期に日本に導入された銅版画に、帰省後、青森市の造道にアトリエを構えてから、本格的にとりくみ、研究し、作品を次々に制作した純三は、本県というよりむしろ、日本の銅版画史に先駆的役割を果たした画家と言えるのである。

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奥入瀬渓流「阿修羅の流れ」(1935年〈昭和10年〉・銅版画・手彩色)=当館蔵


 純三が多数てがけた銅版画の作品の中に、ひと続きのまとまりのある作品群がいくつかある。例をあげると、1933年(昭和8年)から1934年(昭和9年)にかけて制作した計100点の「青森県画譜」、1935年(昭和10年)から純三がなくなる1944年(昭和19年)までの間に制作した計108点の「小品集」、1939年(昭和14年)から1944年(昭和19年)まで続けた雑誌「月刊東奥」の表紙画、昭和9年前後に制作した「奥入瀬渓流シリーズ」等がそれである。

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八甲田・奥入瀬・十和田湖の屏風完成予想図・六曲一双・右隻=当館蔵


 最後に挙げた「奥入瀬渓流シリーズ」は計9点からなる作品とされているのであるが、実は郷土館所蔵の今純三の作品群の中に、その完成予想図が残されている。
完成予想図は、実物の十分の一に縮小されて描かれた正確なもので、これによれば、もともとこの連作は奥入瀬、十和田湖、八甲田山をテーマにした48点の雄大な構想であり、最終的に、一扇に24㎝×34㎝の大きさのエッチングの作品を4点ずつ配する六曲一双の屏風仕立てであったことがわかる。さらに48場面の内容をみると、1~10番までが八甲田山、11~25番までが奥入瀬渓流、26~48場面までが十和田湖と3つに大別できる。この設定は、十和田湖へ入る東西南北の4つのコースのうちの、北からのコース、通称十和田北線と呼ばれる「八甲田-奥入瀬-十和田湖」のコースである。このコースは「山岳美、渓流美、湖水美」の3つを満喫できる為、「十和田ゴールドライン」とも呼ばれているものである。
 では、なぜ純三はここまで詳細な完成予想図を残していながら、9点の作品を制作した段階で中断してしまったのであろうか。その原因は、作品が銅版画の技法によるものであることが一番大きいと思われる。純三が考えた作品の1点は24㎝×34㎝の大きさで、エッチングとしてはかなり大型の部類に入る。銅版画は金属の表面を針のようなもので引っ掻いたり、薬品で処理して窪ませた細い溝にインクを詰め込み、プレスをかけてそのインクを写し取る版画の一技法であるが、その作業は大変な緊張感を伴い、根気と体力を要するものである。まして大型の銅版画の制作となると、なおさらである。この過酷ともいえる作業に純三の体は耐えきれずに病を得、ついには生死の境をさまようまでの状況となってしまったのである。
  純三がのこした奥入瀬の作品9点は、昭和初期の奥入瀬の神秘的で重厚な自然の魅力を余すことなく伝えてくれる傑作であるが、そのかげには自分の生死を顧みないほどの、すさまじい純三の仕事ぶりが隠されている。それはおだやかで優しい性格であったと言われる純三に秘められた、修羅の怒りにも似た激しい一面であり、芸術に対する純三の真摯な姿勢のあらわれであったのであろう。


(青森県立郷土館 学芸主幹 對馬恵美子)

○一口メモ
「青森県画譜
 純三の次兄は考現学を提唱した今和次郎である。兄の考現学採集に協力した純三は、次第に自らの作品にも考現学視点を取り入れるようになる。その代表作が「青森県画譜」で、昭和初期の本県の人々の暮らしがユニークな視点でとらえられ、美術としてだけではなく歴史的・民俗的にもすぐれた資料となっている。

※ この記事は、陸奥新報社より承認を受け、2007年4月23日付け陸奥新報から転載したものである。
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# by aomori-kyodokan | 2007-10-29 13:34 | 北のミュージアム

青森県が生んだ先人たち~愛用した品々と遺した言葉

津軽の遺産 北のミュージアム 第5回

 青森県立郷土館では、明治時代から現代にかけて、各方面で活躍、優れた業績をのこした青森県ゆかりの人物たちを紹介している。
文学や芸術、医学や科学技術、政治や教育など様々なジャンルで活躍した本県ゆかりの先人達。そうした先人達をより身近に感じることができるような資料を探し、展示している。

 今年生誕百年を迎えた歌手淡谷のり子(青森市出身 1907~1999年)。青森市の裕福な商家に生まれ、恵まれた少女時代を送った。その後、母と妹と上京、苦労しながら本格的な声楽を学ぶ。その歌唱力で将来を期待された逸材だったが、経済的な事情から流行歌の世界へ転向。「別れのブルース」、「雨のブルース」が大ヒット、ブルースの女王と呼ばれた。
戦時中も化粧をして華やかな衣装に身をつつみ歌い続けた。彼女にとって歌うことは生きることであり、闘いであった。慰問に訪れた彼女の歌声を今も記憶に残し、その記録をたどりたいと話す人もいる。しかし、残念なことにまとめられている資料はなく難しい。
青森市が所蔵する淡谷のり子の様々な資料。大量の楽譜やレコード類の他にやはり目をひくのは華やかな衣装やアクセサリの数々。大きくて首を振れば落ちそうなイヤリングや指輪、ビーズがちりばめられた小物入れ、香水の香りがほのかに漂うスカーフやハンカチ。ステージでは衣装にかくれて見えることがほとんどなかったであろうハイヒール。日常でも美しく華やかなものを好んだという。


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郡場寛が愛用したタイプライター



 郡場寛(こおりば かん・青森市出身   1882~1957年)は世界的な植物生態学者。酸ヶ湯温泉の基礎を築いた両親をもち、八甲田の自然に親しむ中で植物へ関心を高めていった。母ふみ(1856~1925年)は、八甲田の山々を歩き、採集した植物を息子に送った。寛は研究を進め、現在の京都大学教授、弘前大学学長などを歴任した。多忙な日々を過ごす寛が常に持ち歩いたとされるタイプライターがある。大切に使われた愛用品である。
学長となってからも学生達とともに八甲田の山々を歩いた。研究者として広い専門分野をもち、学生達に慕われた教育者でもあった。


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野澤如洋が家族らに宛てた葉書




 日本画に独自の世界を築いた野澤如洋(のざわ じょよう・弘前市出身 1865~1937年)が家族らに宛てた葉書がある。
幕末、弘前藩士の家に生まれた如洋は、幼い頃から家族を驚かすほどの絵の才能をみせていた。故郷を離れ、日本画壇の中心地であった京都で各種の展覧会に出品、連続入選を続け、その実力は高く評価された。1907年に発足した文展(文部省美術展覧会)の審査員に推せんされたが、辞退する。中国で水墨画の本質に触れ、さらに欧米諸国を歩き、異国の文化や風土に刺激を受けながら絵を描き続けた。葉書には如洋の日常が描かれている。自身の後ろ姿も描かれ、味わいがあり、作品とはまた違った魅力を放つ。


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版画誌「青森版画」に寄せられた棟方志功の作品と封筒



 世界的版画家棟方志功(青森市出身 1903~1975年)は、中央で活躍するかたわら、地元青森の版画誌「青森版画」などにたびたび作品を寄せた。また表紙のデザインを手がけたりした。
 志功自身が必要な点数を刷り、作品を送ってきた。作品が入れられてきた封筒も志功の手作り。形もその時々で異なっている。それぞれがユニークな、世界でただ一点の志功の手になる封筒なのである。そして、同誌創刊十周年を祝って事務局に寄せられた葉書には、青森県の版画の普及と発展を願って後輩達を励ます言葉がならんでいる。
(青森県立郷土館学芸主査 太田原慶子)

一口メモ 
郡場ふみ現在の弘前市出身。酸ヶ湯温泉の基礎を元弘前藩士の夫白戸直世とともに築く。5人の母。寛は二男。寛の研究を側面から支えた。


この記事は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年4月9日付け陸奥新報より転載したものである。
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# by aomori-kyodokan | 2007-09-20 14:08 | 北のミュージアム

年越しの夜に神招く

津軽の遺産 北のミュージアム 第4回


 津軽地方に残る文化財には、法律で保護することを定められた有名な資料だけではなく、一般にはあまり知られていないが、大変貴重な資料が数多く存在する。
 また、それらのなかにも、古文書や古い道具、工芸品、金石文、建物などの「有形」と、伝統的な行事や習俗などの「無形」の資料がある。
 どちらも、わたしたちのふるさとの歩みを知るための重要な文化財であるといえよう。そのなかの無形の文化財として、年越しに家々を訪れる神々を紹介したい。

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写真1 A家の主人が玄関から、見えない「山の神サマ」を招き入れる  小山隆秀撮影


 弘前市のA家では代々、毎年12月31日の年越しの夜になると、見えない神を玄関から座敷へ招き入れる。「山の神サマ」だという。30日から、家の神棚や床の間、屋内の各所、小屋、井戸、蔵、便所などにお供えを飾り、新年を迎える準備をする。これは、市内の他家だけでなく、他地方でもよくある習俗で、それぞれ、屋内の神々が宿る場所を意識していた名残りではないかと考えられる。


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写真2 A家の座敷で「山の神様」にお膳をすすめる主人 小山隆秀撮影


 ところがA家が近所の家々と大きく異なる点は、年越しの晩になると、床の間がある座敷の隅に、年越しの料理を盛った、二つのお膳を用意することである。その日の夕方、玄関の戸が開けられる。式台(しきだい)には家の主が座り、外の闇へ向かって告げるのである。「どうぞ、お入りください」と。
 目には見えないが、「山の神サマ」が来たのだ。半世紀前までは、家の前の道路まで出迎えて、赤子のようにヒモで背負うまねをして連れてきたという。
 家に入った「山の神サマ」は、座敷の二つのお膳へと招かれる。「どうぞお座りください、ゆっくりとおあがりください」と歓待されるのだ。その間、当主は神棚と仏壇を拝む。まもなく「お召し上がりになりましたか、足元を大事にお帰りください」と、主人は「山の神サマ」を再び玄関から送り出す。
 代々、年越しにA家にやってくる「山の神サマ」とは何者なのだろうか。家に来たらすぐに返されることや、「山の神サマに供えたお湯は、道路の真ん中に捨ててきた」というから、あまり歓迎される神ではなさそうだ。また、「床の間へ上げられると恐れ多くて困る神なので、部屋の隅に招く」というから、それほど高い神格ではないことがわかる。
 全国的な事例からすれば、この「山の神サマ」の送迎習俗は、他地方の「疱瘡神送り」と似ているのだ。疱瘡神(ほうそうがみ)は、恐ろしい病、疱瘡をもたらす神として、古くから全国で恐れられてきた。江戸時代の弘前藩でもたびたび疱瘡が流行ったが、災いのもととなる疱瘡神を、異界へ送り出す儀式をやった記録がある。
 奈良県や山形県では、A家と同じ作法で、年越しに家の当主が、疱瘡神を家へ招き入れ、供物を上げて返す家がある。実はA家の神棚には、さらに、風邪神サマ、ウチ神サマ、疱瘡神サマの3体が祀られてきた。これらの神々はふだん、家族を病から守り、家内安全を祈願する神だという。
 よって、年越しにやってくる「山の神サマ」は、もともとは神棚にいる風邪神や疱瘡神であったが、いつの時代にか交替してしまった可能性も考えられないだろうか。実は、このように年越しにやってきて、すぐ帰る小さな神々は、津軽の各地にいたらしい。
 1935年(昭和10年)頃まで田舎館村では、小正月1月15日の年取りに、A家のように疱瘡神と麻疹神を招き入れて帰す家があったという。


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写真3 B家の玄関で訪問する神へ供えられたお膳  渡辺真路撮影


 また、つがる市木造のB家でも、代々、年越しにやってくる見えない神がいて、家の戸障子を全部開け、玄関にお膳を用意し、もてなしてから帰している。この神の名は不明だという。同様の習俗は昭和30年(1955年)代まで、青森市内でもあったようだ。ほかにもご存じの事例があれば、教えて頂きたい。
 このように古くから日本各地では、年越しには豊穣をもたらす年神(としがみ)だけでなく、歓迎されない神もやってくるという信仰があった。
 これらの来訪神を送迎する習俗は、伝染病の恐怖に脅えたふるさとの歴史的な記憶を示す、見えない無形の文化財であるといえよう。
(青森県立郷土館研究員 小山隆秀)

○一口メモ
疱瘡(ほうそう)

近代医学以前、全国各地で大変恐れられた病。原因とされる「疱瘡神」を歓待して鎮め、異世界に送り返すと病気が治ると信じられた。

※この記事は陸奥新報社の承認を得て2007年4月2日付け陸奥新報より転載したものである。
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# by aomori-kyodokan | 2007-08-31 10:59 | 北のミュージアム