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希少な生物暮らす白神

津軽の遺産 北のミュージアム 第13回

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白神山地のブナ林


世界遺産「白神山地」
 白神山地は、平成5年(1993)12月の第17回世界遺産委員会において、世界遺産(自然遺産)として登録された。広大なブナ天然林地域として、高く評価されたのである。白神山地では、多くの生き物たちが生態系の調和を取りながら暮らしている。

白神山地の脊椎(せきつい)動物 
 白神山地には、ニホンツキノワグマをはじめ36種類のほ乳類が確認されている。その中には国の天然記念物に指定されているヤマネ、特別天然記念物のニホンカモシカも棲息している。ほかには渓流沿いに棲み、小魚や水生昆虫などを水中に潜り込んで捕食するニホンカワネズミ、樹間を滑空するムササビなども確認されている。また、白神山地の樹洞や洞くつから、カグヤコウモリ、モリアブラコウモリなど12種類のコウモリが確認されている。
 鳥類はクマゲラをはじめ85種類、は虫類はタカチホヘビほか9種類、両生類はトウホクサンショウウオなど13種類が確認されている。

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エゾゲンゴロウモドキ


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シラカミメナシチビゴミムシ


白神山地の無脊椎動物
 白神山地は、自然環境がとても良い状態で残された地域で、そこに棲息する昆虫は多種多様である。白神山地だけで認められる固有種、北限・南限の種類、希少な種類など、数多くの注目される昆虫が棲息している。豊かなブナ林は豊かな土壌をつくり、無脊椎(むせきつい)動物たちにも、豊かな生活場所を提供している。
 平成4年(1992)7月、白神岳において、青森県立郷土館の調査による貴重な発見があった。体長が約3.5ミリメートルしかない非常に小さいゴミムシの仲間が、土壌から採集された。今まで知られていなかった種類で、発見の翌年「シラカミメナシチビゴミムシ」として新種記載された。白神山地にしか棲息していない固有種である。この種類は名前からわかるように眼は退化して痕跡的に認められる程度で、さらに翅(はね)も退化してなく、体長も微小である。湿った土中の生活を好み、土中での生活に適応した体形をしている。体の構造からも移動範囲が非常に狭く広域での移動は不可能であり、棲息範囲も大変狭い。このため、伐採などでまわりの環境が急激に変化し、土壌が乾燥してきても逃げることができない。環境の悪化により短期間での絶滅を起こす可能性の高い種類である。この種類が白神山地で発見されたのは、白神山地が今まで伐採されることもなく、手つかずで、古くから自然の状態が良好でそのまま残されてきた場所だからこそで、その証になる昆虫である。
このほか、白神山地の豊かな腐葉土(ふようど)には数え切れないほどの無脊椎動物が棲息している。ブナ林の落葉や倒木を土壌に変える役割を担っている動物である。ミミズ類のほかに、体長が一センチメートルもない昆虫のトビムシ類がいる。翅が退化してなく、無翅(むし)昆虫類とも呼ばれている。赤石川の腐葉土からはクロトビムシモドキなどが、櫛石山(くしいしやま)の腐葉土や追良瀬川のブナ倒木上のコケからはニッポントゲトビムシなど多くの種類が確認されている。また、ブナ倒木からは体長四センチメートルもあるオオゴキブリが採集されている。自然環境が良好な森林にだけ棲む森林性のゴキブリである。これらの生き物がブナ林を支えている。
 白神山地には「ノロ沼」「十二湖」などの沼があり、川の流れからとり残された水溜(たま)りもたくさんある。これらはブナ林から湧き出てきた清らかな水をたたえ、トンボの幼虫やゲンゴロウなどの水中で生活する昆虫がたくさん棲息している。赤石川上流の神秘的で美しい「ノロ沼」からは、オオルリボシヤンマ幼虫、メススジゲンゴロウ、マメゲンゴロウ、ミヤマミズスマシなどが確認され、白神岳山頂の水溜りからはルリボシヤンマやタカネトンボの幼虫が確認されている。白神山地ではブナ林だけでなく、沼にも豊かな生物相が見られる。
(青森県立郷土館 学芸主幹 山内智)

※ この記事は、陸奥新報社の承認を得て、2007年6月18日付け陸奥新報の記事を転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-20 13:33 | 北のミュージアム

親しまれてきた岩木山

津軽の遺産 北のミュージアム 第12回

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岩木山(岩木高原から望む)


岩木山の生い立ち
 津軽平野の南端部にそびえている「岩木山」は昔から「津軽富士」と呼ばれ、信仰の対象として、山菜の収穫場所として人々に親しまれてきた山である。弘前方面から見ると、山頂は南側から鳥海山、岩木山、巌鬼山の三峰に分かれ、中央の岩木山が1625.2メートルと最高峰である。
 岩木山は火山活動によってできた山で、山ができはじめたのは新生代第四紀更新世(約170万年前~1万年前)中頃と言われている。その後、火山活動を繰り返し今の岩木山の形になった。火山活動は今でも続いており、噴火は文久3年(1863)を最後に起こっていないが、昭和45年(1970)には西側の赤沢付近で火山性異常現象が起こっている。岩木山は今も生きている。

岩木山の植物たち
 岩木山は、標高500メートル以下ではミズナラなどの雑木林が広がり、部分的にススキ草原やリンゴ園などが見られる。さらに標高500メートルを越すあたりからブナ林が発達し、標高が増すごとにチシマザサが増えてくる。1,000メートルを越すあたりからはミヤマハンノキやダケカンバを中心とした高山低木林となる。岩木山では、変化に富んだ植物分布を見ることができる。
 フランス人宣教師で、布教のかたわら植物の調査研究をしていたフォリー神父は、岩木山でサクラソウの一種を採集し、明治19年(1886)に新しい植物として名前を付けたのがミチノクコザクラである。岩木山特産種の植物である。

岩木山の動物たち
 
 岩木山の動物については、古くから多くの研究者によって調査されている。岩木山の脊椎動物の代表はニホンツキノワグマで、畑などに出没している。この他に里山近くには世界最小の肉食類と言われているニホンイイズナや、山頂付近には肉食性のホンドオコジョが棲んでいて、ネズミやモグラ類、鳥類などを補食している。この他に、ホンドタヌキ、ホンドテン、ホンドイタチ、ニホンアナグマ、トウホクノウサギや、樹木間を滑空するニッコウムササビなどが山麓から中腹にかけてのミズナラ林やブナ林で生活している。

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種蒔苗代(爆裂火口にできた沼)


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チビヒサゴコメツキ


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ヨモギハシロケタマフシ


岩木山の昆虫たち
 外国人で、岩木山の昆虫を初めて採集し紹介したのは英国人ルイスである。ルイスは明治13年から14年にかけて日本各地で調査を行い日本の昆虫相を次々と解明した。採集日程が明確に残されており、明治13年8月30日に函館の帰り青森に上陸し、8月31日には弘前に入り、岩木山へ登って9月2日には青森に戻っている。ルイスがこの時に採集した標本で名前が付けられた昆虫にはヒメマルクビゴミムシ、ヨツアナミズギワゴミムシ、ヒメスジミズギワゴミムシなど数多くある。
 この中で岩木山の名前のついたイワキナガチビゴミムシは、東北地方北部の渓流の湿った石の下に生息するゴミムシである。また、山頂で2匹の体長5ミリメートル内外の小形のコメツキムシを採集している。後にチビヒサゴコメツキと名前が付けられた。日本の代表的な高山性のコメツキムシで、岩木山では錫杖清水(しゃくじょうしみず)や種蒔苗代(たねまきなわしろ)などで採集されている。このコメツキムシの記載文のなかに、9月1日に採集されたことが書かれており、この日にルイスは間違いなく山頂まで登ったのである。明治の初めにどのようにして外国人が岩木山に登ったのか大変興味深い。
 岩木山でも、植物の芽、茎、葉などに大小様々なコブ状の膨らみが見られる。このほとんどは昆虫によって作られた「虫瘤(むしこぶ)」、種類によって形が異なる。このコブの中に幼虫が棲んでいる。山麓に見られるヨモギにはハチの一種タマバエ類によるヨモギハシロケタマフシ、ヨモギハエボシフシ、ヨモギメツボフシなどの虫瘤が見られる。
(青森県立郷土館 学芸主幹 山内智)

※ この記事は、陸奥新報の承認を得て、2007年6月4日付け陸奥新報より転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-20 13:27 | 北のミュージアム

現存最古級の津軽領国絵図

津軽の遺産 北のミュージアム 第10回

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正保の「陸奥国津軽郡之絵図」(貞享二年の写し)=当館蔵


第一級の歴史資料
 徳川幕府は260年余の治世の中で数度、諸国の国絵図(くにえず)を徴収した。そのうち、幕府が初めて作成基準を示した正保(しょうほう)国絵図と、規格の統一化をめざした元禄(げんろく)国絵図は重要で、それぞれ「古国絵図」「新国絵図」と呼ばれ、利用される機会も多かった。国絵図は正本(清絵図)と副本(控図)をつくり、正本を幕府に提出するのが通例だったから、国元に副本が残っていることが多い。
 青森県立郷土館が所蔵する「陸奥国津軽郡之絵図」は正保国絵図の関連絵図で、副本の忠実な写しである。絵図の裏書により、貞享2年(1685)に作成されたことが分かる。津軽領の正保国絵図は、正本が正保2年(1645)に幕府へ提出されたが、これはすでに焼失してしまった。さらに国元にあるべき副本も、正保国絵図からほぼ半世紀後につくられたはずの元禄国絵図も発見されていないので、今のところ、この「陸奥国津軽郡之絵図」が最も古い津軽領国絵図といって良い。17世紀前半における津軽地方の景観を知るビジュアルな資料としても貴重である。


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津軽半島のアイヌ集落


描かれたアイヌ集落
 「陸奥国津軽郡之絵図」の中にアイヌ集落が表現されていることは、よく知られている。津軽半島に2カ所、夏泊半島に3カ所の計5カ所に、「犾村」「狄村」(えぞむら)の表記がある。
 江戸時代、蝦夷地から北東北にかけて広くアイヌが居住していた事実は、さまざまな記録で確認できる。例えば盛岡藩家老席日誌(雑書)の寛文5年(1665)7月15日条には、田名部から3人のアイヌが盛岡へやってきて藩主に謁見したとあり、弘前藩庁日記(国日記)にも、アイヌが熊撃ちをして褒美をもらったという記事が随所に見られる。天明8年(1788)に津軽を訪れた比良野貞彦が「奥民図彙」(国立公文書館蔵)に描いているように、津軽の農民生活にはアイヌが用いた衣服(アットゥシなど)や漁具が入り込んでいた。現代人が考える以上に、和人とアイヌは身近な隣人として共存していたと言えよう。

和人とアイヌの対立
 しかし、このような関係は、一朝一夕につくられたものではない。時には厳しく対立し、衝突する場面もあった。交易・漁業・労役をめぐって、和人がアイヌから搾取するケースもあり、そうした和人への不満が一気に噴き出したのが、寛文9年(1669)6月、蝦夷地南部で起きたシャクシャインによる和人襲撃事件、いわゆる「寛文蝦夷蜂起」である。
 事の発端は、シベチャリ(静内)の首長カモクタインと、ハエ(門別)の首長オニビシとの対立にある。両者は常々、漁場・狩猟場をめぐって争っていたが、オニビシが、カモクタインを殺害したことで、緊張が高まった。カモクタインの姉に「弟の仇をとって」と頼まれたシャクシャインは、オニビシを追い詰めるが(「津軽編覧日記」三)、松前藩の仲介により和談を強いられ、いったん退いた。しかしシャクシャインは、けっきょくオニビシを討ち果たしたので、松前藩の面目は潰れ、事態はアイヌどうしの対立から、アイヌと和人の対立へと変化していった。

現地情勢は複雑怪奇
 和人と比較的近い関係にあったオニビシ側は、松前藩に武器や食料の支援を要請した。しかし、穏かな事態収拾を望む松前藩はこれを断り、曖昧な態度を取り続けた。そうした中、オニビシ側が松前藩に送った使者ウトウが不審死を遂げ、「松前藩に毒殺された」との風聞が広まった(「津軽一統志」巻十上)。


 いくら頼んでも味方してくれないし、その上ウトウを毒殺されて、もはや松前殿はあてにできない。敵も同然だ。


と意気巻くオニビシ側の様子を見て、シャクシャインは和人襲撃を持ちかける。この時、シャクシャインは64歳。「アイヌとしての戦い方をよく知る者」と、「津軽一統志」は記している。

1枚の書状
 松前藩が幕府に対して報告を行ったのは7月13日だが、近隣の弘前藩・盛岡藩・秋田藩では事件の直後からいち早く警戒を強め、松前藩の要請がありしだい、派兵できる態勢を整えていた。
 青森県立郷土館が所蔵する山田家文書の中に、弘前藩四代藩主津軽信政(越中守)が松前藩5代藩主松前矩広(のりひろ、兵庫守)に宛てた、寛文9年(1669)9月20日付の書状がある。


 そちら様もご無事で何よりです。当家の杉山八兵衛(吉成)はまだ松前に到着していないようですが、先に蝦夷 地に遣わされた八左衛門(松前泰広)殿のご意向のまま、何用にもお役立て下さい。当家の者に対する心遣い、ありがたく存じます。


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 弘前藩は3,000人規模の動員を計画し、9月7日、杉山八兵衛が第一陣700人を率いて、鰺ヶ沢湊を出帆した。杉山は8日朝には現地に到着していたのだが、江戸に居る津軽信政はまだ、そのことを把握していない。それがかえって、江戸~弘前~蝦夷地の距離を実感させてくれる。
(青森県立郷土館主任研究主査 本田伸)

一口メモ
「国絵図」

 徳川幕府が諸藩に作成させた公的絵図。慶長・正保・元禄・天保の4度徴収された。縮尺は6寸1里(21,600分の1)。青森県立郷土館所蔵の「陸奥国津軽郡之絵図」は、393×488センチと巨大なものである。

※ この記事は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年5月21日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-20 13:13 | 北のミュージアム

淡谷のり子生誕100年

津軽の遺産 北のミュージアム 第32回

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昭和53年『淡谷のり子という女』(緑の笛豆本116 県近代文学館蔵)


貫き通す生き方
 『淡谷のり子という女』と題した、手のひらサイズのかわいらしい本がある。著者は、青森県の政治・文学・美術界に大きく貢献した淡谷悠蔵(1897~1995)。のり子の10歳上の叔父である。彼はその中で、のり子の気質のことを「からきず」と言っている。
 また、似たようなニュアンスで「じょっぱり」だとも言っている。
 悠蔵によると「じょっぱり」は、「正しいと思う自分の判断を言い張るだけでなくて、間違っていたことに気がついても、いったん言ったことはあくまでも言い張る」ことだという。つまり、強情だというのだ。
 それに対して「からきず」は「判断以前のもの」、善い悪いと思う前の「カンとくる感情」だという。いやなものはいやなのだという、考える以前の心の反応と言えるものだろうか。それだけに「案外純粋で爽快なものであることがある」とも、悠蔵は言う。
 昭和を代表する歌手淡谷のり子(1907~1999)は、戦時中、どんなに強制されてもモンペをはかず、細い眉を描き、濃い口紅をつけ、美しい衣装を身にまとってステージに上がった。「戦争という大きな怪物のために、自分を失いたくない為であった」と、のちにのり子は語っている。まわりはどうであれ、自分を貫き通す「からきず」の精神が、ここにあらわれていた。

変転する運命
 のり子の生家は「大五阿波屋」という呉服屋で、明治~大正期における青森屈指の豪商であった。のり子が生まれた頃は、30人を超す奉公人を抱え、店先はいつもにぎわっていた。父彦蔵が商売を継ぎ、のり子は祖母まつに溺愛されて育つ。まつには彦蔵を含め、13人の子がいて、悠蔵は13番目、末っ子だった。
 しかし、明治43年(1910)の青森大火で店は焼失し、淡谷一族の運命は変転する。彦蔵は再建を目指して商売に奔走したが、羽振りの良い時代から続いていた放蕩(ほうとう)は一向に止まず、店はけっきょく人手に渡ってしまう。
 黙って夫に従ってきたのり子の母みねは、古いしきたりとしがらみに縛られた「家」を捨て、故郷を離れる決意をした。2人の娘を連れて上京したみねは、娘たちに音楽を学ばせた。自分の力で生きていく手段を身につけさせたいという強い願いは、彼女自身の半生から生まれたものだった。
 昭和4年(1929)、のり子は、東洋音楽学校(現東京音楽学校)を首席で卒業し、声楽家としての一歩を踏み出した。しかし、家計は苦しく、生活のためにと、流行歌手道を選ぶ。優れた歌唱力と、ステージでの圧倒的な存在感が人々を魅了し、「別れのブルース」や「雨のブルース」の大ヒットによって、歌手としての地位を不動のものにした。

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悠蔵とのり子(個人蔵)


のり子と悠蔵
 一方、「商人に学問はいらない」と言われながらも書物を愛した悠蔵も「家」を飛び出し、土を耕す生活に自らを投じていた。日々食べるものにさえ苦労していたその時に、のり子から悠蔵に手紙が届く。「お金を貸してほしい」との訴えだが、彼にも余裕はなかった。「死ぬ気になれば何でもできる」「貧しいのはお前ばかりではない」と返事をするしかなく、再び届いたのり子からの手紙には「絶交だ」とあった。
 兄のように頼りにしていた悠蔵に裏切られ、強い憤りを感じたのり子は、画のモデルをして生活を支えた。この時の意地の張り合いで2人の間にできた溝は、なかなか埋まらなかった。しかし、互いに苦しい年月を過ごした後でのり子は、悠蔵の「からきず」の思いを知った。そのことで2人の間には、「似たものどうし」とまで言われる深い信頼関係が築かれた。
 悠蔵は歌手として「からきず」を通すのり子を、温かく見守り続けた。「淡谷のり子には、せいいっぱいわがままいわせて、好きな歌うたわせて貰いたいなあと思う。それで時代おくれになるならなったでいいし、はやらなくなってほろびたらほろびたっていいと思う。人がいつか死ぬように、歌だって、人気だっていつかは消えることもある。ジタバタするでない。何処かの誰かの胸には残って行くだろう」(『淡谷のり子という女』)と、のり子への思いを綴っている。
 のり子が生まれて、今年で100年。県立郷土館では来年1月20日まで、「生誕100年記念 淡谷のり子展」を開催し、青森市に寄贈されたのり子の遺品を中心に、その生涯をたどる。自筆の歌詞ノートやステージ衣装に加え、悠蔵の日記や著書を交えて、「素顔ののり子」を追うことにしている。
(青森県立郷土館学芸主査 太田原慶子)

一口メモ
淡谷悠蔵
青森市出身。文学者、政治家。トルストイの人道主義に共鳴し、新城村(現青森市)で農業をはじめた。農民運動に関わる一方、雑誌「黎明」「座標」を創刊するなど、県内の文学界に大きく貢献した。元社会党代議士。

※ 以上の文章は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年12月3日(月)付け陸奥新報に掲載された記事を転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-10 13:46 | 北のミュージアム

懐かしい昭和30年代

津軽の遺産 北のミュージアム 第9回

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家電製品が勢ぞろい-企画展会場の写真


わが家にテレビがやってきた
最近、昭和30年代を取り上げた本が書店の棚に多く見かけるようになった。また、夕日に映える建設途中の東京タワーが印象的な映画が話題となったり、昔の駄菓子屋を模した店も現れた。
 オート三輪、テレビのヒーロー、フラフープ等々は「団塊の世代」にとってはとりわけ懐かしい言葉であろう。
 この昭和30年代ブームにあやかり、昨秋、青森県立郷土館では特別展「わが家にテレビがやってきた―昭和30年代以降のくらしの変遷をたどる―」を開催し、思い出がいっぱい詰まった昭和30年代を振り返った。

三種の神器
 昭和20年代後半には東京地区においてテレビ放送が開始され、「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ・電気冷蔵庫・電気洗濯機などの家庭用電器製品が電器屋の店先に並び始めた。昭和34年の皇太子ご成婚直前にはテレビの受信契約数が倍増し、青森県でもこの年にテレビ放送が始まった。
 昭和30年代後半に「神武景気」が始まると、耐久消費財の生産が本格化した。テレビをはじめとする家電製品の登場により、人々の生活がこれまでにくらべて便利になり、またテレビから多くの娯楽を享受できるようになった。

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懐かしいお茶の間(再現)-企画展会場の写真


台所につづく四畳半
白黒テレビ、茶箪笥、ちゃぶ台といえば昭和30年代の茶の間を構成する代表格である。そしてのれんが下がった障子の向こうには台所が見えるのが一般的であった。
 茶の間はちゃぶ台を囲んでの食堂であり、子どもたちの勉強部屋でもあった。また、テレビを置いた家族団らんの場であり、夜はちゃぶ台の脚をたたんで片づけると寝室となる。茶の間はさまざまな使い道がある多機能空間であった。

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駄菓子屋の店先(再現)-企画展会場の写真


路地裏の記憶
 テレビや少年少女雑誌は、子どもたちの世界に大きな影響を与えた。男の子はヒーローごっこ、女の子は着せかえ紙人形やぬりえに夢中だった。
 学校から帰った子どもたちがおこづかいを握って急いで向かう先は近所の駄菓子屋である。商店街のお菓子屋さんやおもちゃ屋さんで売っているものは、比較的高価な物ばかりなのでおこづかいでは買えなかったのである。
 大通りから入った狭い路地裏は交通量が少なく、子どもたちの格好の遊び場であった。ビー玉・メンコ・ベーゴマなどで遊ぶ男の子や、ゴム跳びに熱中する女の子の元気な姿が見られた。
 紙芝居屋は路地裏の風物として欠かせないものであろう。太鼓や拍子木の音に誘われた子どもたちが集まると、そこには即席の野外劇場が出来上がる。2本の割りばしで水あめが白くなるまでこね回しながら、紙芝居屋のおじさんの名調子に聞き入ったのであった。

レジャーの時代

 休日の増加と労働時間の減少はドライブや家族旅行を中心としたレジャーブームを引き起こした。
 昭和30年に通産省(現、経済産業省)は「国民車育成要綱案」を発表し、4人家族が乗車可能な「国民車構想」打ち出した。この構想はいったん立ち消えとなるが、自動車メーカーのその後の開発努力により、マイカーの夢が実現することになったのである。また、観光地ではカメラを手にした人たちの姿が多く見られ、カメラブームも到来した。
 さらに、昭和31年には、『週刊新潮』が日本初の出版社による週刊誌として創刊された。それまでは朝日、毎日、読売などの新聞社によるものが中心であった。これ以後、各出版社が競って出版するようになり、週刊誌ブームとなった。

消費ブームの到来
 わが国の高度成長が始まった昭和30年代は、国民所得の向上にともない、耐久消費財を中心とする消費ブームがおこった。当時、弘前地方の買い物の中心地といえば土手町商店街であり、なかでも大正12年創業の「かくは宮川」デパートは、娯楽場としてにぎわった。昭和34年に弘前市から出された調査報告書によれば、人々はデパートに来ることをを一つの楽しみと考えており、
ショーケースの中の商品を見てだいたいの値段の見当をつけては、商店街の小売店で手頃な値段の商品を買い求めていると分析している。
昭和30年代は全国的にスーパーマーケットが現れた時期でもあり、販売経費の節減のためにセルフサービス方式が取り入れられた。弘前市では昭和33年に「主婦の店」が出店した。
昭和34年には「かくは宮川」デパートが県内で初めてパートタイマーを導入し、主に家庭の主婦を対象に採用した。このように、現在私たちが買い物で見かける光景は、この時期に始まったと言えるであろう。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

一口メモ
「三種の神器」
 皇位のしるしとして伝えられる鏡・剣・曲玉(まがたま)の三つの宝。転じて三種の代表的な日用必需品を指して使われる。

※ 以上の文章は、陸奥新報社の承諾を得て、2007年5月14日(月)付け陸奥新報に掲載された記事を転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-10 13:37 | 北のミュージアム

淡谷のり子展始まる

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 12月1日(土)から淡谷のり子展が始まりました。特別展示室中央に設けられた、ステージを模した展示台の上には、ミラーボールが取り付けられました。往年の舞台の雰囲気をお楽しみ下さい。

追記:ブログ『まるごと青森』(12/7(金)付)でも本展のご紹介を頂きました。ありがとうございました。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-01 09:00 | 企画展・特別展