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青森県立郷土館ニュース

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カテゴリ:北のミュージアム( 18 )

変貌しつつある博物館

b0111910_1351165.jpg津軽の遺産 北のミュージアム 第48回(最終)
わくわくたいけんルーム)


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洗濯板での洗濯


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きなこを味わう子どもたち



博物館が変わる
 「博物館」というコトバを聞いて、人々はどんなイメージを抱くだろう。一般には、学術的価値の高い資料が展示されている様子や、「○○展」と銘打った展覧会などを思い浮かべるのではなかろうか。それで興味をそそられる人もいれば、敷居の高さを感じて敬遠する人もいるだろう。
 博物館は、文化財や郷土資料を収集・保管して後世に残すための施設である。それらを展示に活用したり、研究の成果を論文・報道というかたちで発表したりする。高度経済成長期以降に急増し、類似施設を含め、全国に五六一四館ある(平成十八年十月の文科省報告書による)。しかし、いわゆる博物館離れによる入館者数の減少や、経済情勢の悪化による予算削減などで、存続の危機に立つ館も増えている。
 青森県立郷土館は、昭和四十八年(一九七三)、郷土の姿を正しく理解し、現在を見つめ、未来を考えることを目的に設置された。他館同様、利用者減や予算削減に苦慮しているが、一時は三万人台にまで落ち込んだ年間利用者数が、ここ数年は七万人台にまで回復している。いったい何が変わったのだろうか。

わくわくたいけんルーム
当館三階には、郷土学習室「わくわくたいけんルーム」が設置されている。ここには、昔の遊びや暮らしの道具のほか、歴史や自然に関わる実物資料が、約五〇種類の体験プログラムとして、常に展示されている。
 本来、博物館では「手を触れないでください」が原則だが、ここではすべての資料に触ることができ、自由に動かせる。先人の技や知恵を体感できる、驚きの学習室である。休日には、親子でずぐり(コマ)回しを練習したり、着物を着て笑顔で写真を撮ったりしている様子がよく見られる。また、学校団体の来館時には、まるで宝探しでもするように、体験用の資料が入ったボックスを子どもたちが開けている姿も見られる。
 館によっては、音を出さないように気を使い、また監視されているような雰囲気の中で観覧しなければならないところもあるだろう。しかし、この「わくわくたいけんルーム」からは、「博物館は固い」「難しい」というイメージはみじんも感じられない。

移動博物館
 資料に触れられるのは「わくわくたいけんルーム」だけではない。県立郷土館では、実物資料を運んで展示解説や体験活動を行う「移動博物館」を、県内の学校に無料で実施している。回数が多いのは、小学校四年生の社会科「古い道具とむかしのくらし」に関連した内容で、昔の衣食住を体験できる。
 学校では教科書や資料集を用いて、電気・ガス・水道がなかった頃の生活を説明してきたが、写真や言葉だけでは、「先人の願いや工夫」という学習のねらいがなかなか伝わらない。しかし、「移動博物館」では、囲炉裏(いろり)・かまど・炭火アイロン・氷冷蔵庫などの道具を実際に使ったり観察したりすることができ、工夫の跡がよく見える。まさに「百聞は一見に如かず」である。天秤棒(てんびんぼう)で水桶を担(かつ)いだり、洗濯板で洗濯したり、石臼(いしうす)で「きなこ」をひいたりと、身をもって先人の苦労を体験することができる。
 炒りたての大豆をゆっくり石臼でひくと、豆の甘いにおいと香ばしさがあたりに立ち上り、クリーム色のきめ細かい「きなこ」ができあがる。食品工場の機械で高速粉砕されたものとは違い、味も風味も別格である。自分たちで作った「きなこ」を口に入れた時、こどもたちの笑顔が弾ける。「苦労したかいがあった」と感じているのだろう。私たちの生活は楽ができるように進化してきたが、このように、手間暇をかけることの良さも再確認することができる。
 「移動博物館」の内容は、学校の要望に応じたオーダーメイドで構成している。平成十九年度はほかに、縄文時代の暮らし、戦時中の暮らし、昔の脱穀体験、遠足先での自然観察会などのテーマで、約五〇校で実施した。

博物館がめざすもの
 平成二十年度、当館では「青函連絡船なつかしの百年」「団塊世代の青春時代」「ジュディ・オング木版画の世界」「蓑虫山人(みのむしさんじん)と青森」「サムライ・チャンバラ博覧会」などの企画展を予定している。近年、個性的な企画が多くなったと評価されるようになった。
 ほかにも、展示に関するクイズを解きながら展示室を探検する「ミュージアム探検隊」や、観察を通して自然のしくみや生き物の不思議について考える「自然観察会」、恐竜化石のレプリカ作りなどを行う「こどものくに」、教養講座「土曜セミナー」などを、例年通り実施する。
 県立郷土館はいま、見せるだけの博物館から、明確なビジョンを持った博物館へと変貌しつつある。高度な調査研究を進めることはもちろん、その成果を広く公開し発信していくために、誰でも理解できるようかみ砕いた説明をつけたり、展示ストーリーを充実させるよう心がけている。大人の興味だけでなく、子どもたちに博物館の面白さに気づいてもらうことが、大切なのだ。目先の利用者数や歳入の増加をめざすのではなく、公園や映画館のように地域と人々の生活に溶け込んだものになることが、理想である。
 これらの取り組みがうまく実を結ぶかどうかは、わからない。しかし、子どもたちの中に興味の芽を育たせるためには、今、地道に種をまくことが必要である。だからこそ、学ぶこと、発見することの喜びが感じられる場となることが、これからの当館のあり方であると、切に思う。
(青森県立郷土館 研究員 渡辺真路)

※ この記事は、陸奥新報社の承認を得て、2008年3月31日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-04-09 17:41 | 北のミュージアム | Comments(0)

北前船が運んだ文化

津軽の遺産 北のミュージアム 第22回
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白八幡宮祭礼の山車

特徴的な西浜の祭礼
 弘前藩領で「四浦」と呼ばれた青森・鯵ヶ沢・深浦・十三の各湊や、盛岡藩領で「田名部七ヶ湊」と呼ばれた大畑・大間・佐井・牛滝・川内・大平・田名部の各湊には、海運がもたらした有形・無形の文化財が、数多く残されている。
 そのひとつが、各地の山車(だし)祭りである。
 鰺ヶ沢町の白八幡宮(しろはちまんぐう)神社は、鰺ヶ沢湾を一望できる高台にある。同社の縁起では坂上田村麻呂、または北条時頼の創建と伝える。鰺ヶ沢湊は江戸時代、弘前藩の保護の下、西廻り航路で上方へ藩米を積み出し、木綿・古着・塩・荒物・雑貨等を移入して繁栄し、日本海側の文化を受容した。同社の社殿にも、近世後期から近代にかけて海運業者が奉納した船絵馬が数多く掲げられている。
 白八幡宮の祭礼は、4年に1度、8月14日から16日にかけて行われる。神社を出発した神輿渡御(しんよとぎょ)の行列が、鰺ヶ沢町内を練り歩き、御仮殿を目指すもので、各町の山車10台が付き従う。最終日には、再び御仮殿を出発した神輿が海上を渡り、白八幡宮へ戻る。
 祭礼の史料上の初見は延宝7年(1679)で、元禄10年(1697)には隔年で行われていた。天保年間(1830~43)には、多数の船が出入りしていた湊の繁栄を受け、にぎやかな飾山となっていたようだ。
 明治初期の中断を経て、明治23年(1890)に隔年行事として復活し、昭和15年(1940)まで続いた。第二次大戦中は自粛していたが、昭和23年に復活し、今に至る。次回は平成21年の予定である。
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塩釜神社のカシ祢宜

海からきた山車
 各町の山車は、四輪の台車に2階建てで、下には囃子方(はやしかた)が乗り込み、上には町ごとの人形が乗る。町会のなかには、天保年間の飾山を明治期まで使用していた事例がある。特に田中町の「神功皇后」(じんぐうこうごう)の人形は、天保9年(1838)に京都祇園祭の山車用として制作されたものを購入したと伝えられ、山車の意匠に海運が与えた影響力の大きさをうかがわせよう。
 また、祭礼に付随する芸能も、海運によってもたらされた。新町の塩釜神社では、安永9年(1780)、当地の商人が大坂からの帰りに仙台の塩釜明神の祭礼から習い伝えたという「カシ祢宜」(かしねぎ)が、少年たちによって舞われる。

描かれた持衰
 海が運んだ文化はそれだけではない。木材を上方へ積み出す際の風待ち湊として栄えた深浦湊には、真言宗の古刹円覚寺がある。坂上田村麻呂の創建と伝えられ、澗口観音(まぐちかんのん)として、全国の船乗りの信仰を集めてきた。近世後期から明治にかけて奉納された船絵馬の多くは、国の重要有形民俗文化財に指定されている。なかでも、寛永10年(1633)の「北国船図絵馬」は、自らの命と引き換えに船の安全航行を祈願したという宗教者「持衰」(じさい)の姿を描いた、有数の貴重資料である。
 また、嵐から逃れた船乗りたちが、自分の髻(もとどり)を切って板に打ちつけて奉納した髷額(まげがく)は、当時の船乗りの習俗を物語る。
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嵐から船乗りを守る円覚寺の竜灯杉

文化のネットワーク
 円覚寺には、「奉納 金比羅宮 前句」と題された天保11年の俳諧額なども奉納されている。当地の俳諧文化の高揚を示すものである。
 江戸時代、俳諧に親しむためには、全国レベルの有力な撰者と定期的に交流する手段を持ち、自らの句を句集に掲載してもらうための金銭の授受が必要であった。それらの条件を満たしたのが、繁栄した湊の商人たちであった。
 例えば鰺ヶ沢の船問屋池田晋安は、享保7年(1722)に句集「そとの浜」を編み、西浜で初めて松尾芭蕉につながる正風俳諧を打ち立てようとした。
 また深浦では、明和4年(1767)に医師大高千○(おおたかちえん)と門下の竹越魚光・里桂親子が、津軽最古の芭蕉塚「千鳥塚」を建立した。竹越家は船問屋若狭屋の主人である。
 特に里桂は、明和5年頃に上京し、各地の俳人や有名人と幅広い交流を持ち、紀行文「高砂子」(たかすなご)をまとめた(円覚寺蔵)。親交があった者の中には、「朝顔につるべ取られてもらい水」の句で全国的に有名な加賀千代女(かがのちよじょ)や、各地の習俗を詳細に記した菅江真澄(すがえますみ)らがいた。
 俳諧は、海を介した文化のネットワークでもあった。
(青森県立郷土館 研究員 小山隆秀)

一口メモ
「持衰」
(じさい)
 有名な『魏志』倭人伝には、倭人の風習として、船で往来するときは必ず、安全祈願のために「持衰」を乗せたと記されている。頭髪にクシを入れず、ノミやシラミやアカだらけの衣服のままで、肉は食べず、女性も近づけず、喪に服したようにする。もし海が荒れて危険になれば、それを鎮めるために持衰を海へ投げ込んだという。  

※ この記事は、陸奥新報社の承認を得て、2007年9月3日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-17 09:30 | 北のミュージアム

北前船ものがたり

津軽の遺産 北のミュージアム 第21回

「北前」とは
 北前船(きたまえぶね)の称は、瀬戸内地方において日本海側を「北前」と呼んだことに由来している。しかし、日本海側では自らの船を「ばいせん」「どうばらかき」「ほまえ」等と呼んでいた。
 北前船は、大坂(大阪)を起点に瀬戸内海から日本海側の諸港をまわって北海道に至る買積船(かいづみぶね)である。買積船とは寄港した先々で安く仕入れた荷物を高く売りさばく船のことで、行き(下り船)は木綿・米・酒・塩・石材などを売り、帰り(上り船)は北海道の鰊(にしん)や〆粕(しめかす)・昆布・鮭等を買い込んで、大坂までの各港において売りさばいたのであった。
 また、諸藩の年貢米や大坂で売却する蔵米(くらまい)などの運賃積みもおこなった。

北前船前史
 室町時代に栄えた代表的な港を「三津七湊」とよぶ。そのうちの七湊はすべて日本海側にあることから、日本海を多くの船が行き来していたことがうかがえる。
 北前船が活躍するのは江戸時代中期以降と考えられている。前期は地域別に特徴ある廻船が使われ、日本海航路では北国船(ほっこくぶね)と羽ヶ瀬船(はがせぶね)と呼ばれる型の船が主役であったが、その後、高い帆走性能と優れた経済性を備えた弁才船(べざいせん)にその座を譲ることになった。
江戸時代前期の商人、河村瑞賢(かわむらずいけん)が幕府の命令により西廻り海運を改良するまでは、福井県の敦賀(つるが)や小浜(おばま)から琵琶湖を経由して京都や大坂に至るルートが使われていた。
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むつ市脇野沢で使用されていた「厚司」(当館蔵)
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北前船の乗組員たち
 北前船は通常、春から秋にかけての一航海であった。「船頭」は北前船の船主(親方)がなる場合と他の人を雇う場合があった。
 一般乗組員は「水主」(かこ)と呼ばれ、そのうち商品の保管や売買、金銭の出し入れを行う事務長兼会計係を「知工」(ちく)、水路及び航海の指揮担当者を「表」(おもて、船内の取り締まりにあたる「親父」(おやじ)、親父の監督下にある若い乗組員を「若衆」(わかしゅう)、炊事や掃除等を担当する最年少の見習水主を「炊」(かしき)と呼んで、それぞれ役割分担がなされた。
 船中では筒袖の綿入れである「どんざ」や、アイヌから入手した「厚司」(あつし)と呼ぶ樹皮製の着物を着用していた。
 乗組員にとって一番恐ろしいのは海難である。時化の時は強風にあおられぬように帆を下げ、または帆柱を切り倒し、さらに積荷も海中へ棄てた。神社に奉納された「船絵馬」には乗組員たちの安全航海への強い願いが込められている。
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山形岳泉筆『合浦山水観』より「鰺ヶ沢弁天崎」(当館蔵)
船鑑札(当館蔵)

青森の諸湊
 国内海運が整備・発達した江戸時代、弘前藩は「九浦制」を成立させた。九浦とは、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三・蟹田・今別の各湊と碇ヶ関・大間越・野内の各関所をさす。そのうち、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三は「四浦」と呼んで町奉行をおいた。九浦制は、「両浜」と呼ばれた青森と鰺ヶ沢を中心とする流通統制機構であった。
青森湊は弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)の命により、藩士森山弥七郎がその開港に尽力した湊である。それまで善知鳥村(うとうむら)と呼ばれていた小漁村は「青森」と改称された。
 弘前藩における日本海海運(西廻り海運)の拠点とされたのは鰺ヶ沢湊である。年貢米を中心とする領内の米穀は、岩木川舟運で十三湊に集められたのち、鰺ヶ沢湊へ回漕され、そこで大型船に積み替えられて上方へ運ばれた。
深浦湊は中世以来、「風待ち湊」として利用された天然の良港である。
写真の「船鑑札」は、深浦の長七という者が持っていた2人乗りの船が日本各地で商売することを認めた許可証である。天保14年(1843)に奉行所が発給したもので、これを携帯して各湊の番所で提示した。

廻船問屋の活躍
 各湊では廻船問屋が活躍した。幕末の青森湊には13軒の廻船問屋が存在した。なかでも屋号を「滝屋」と称する伊東善五郎家は、弘前藩をはじめ黒石・仙台・久保田(秋田)の各藩及び蝦夷地の御用を命じられるほどの盛業ぶりであった。
 廻船問屋のなかには文化活動においても活躍した者が多く、深浦の廻船問屋若狭屋の竹越里圭は、父漁光とともに深浦俳諧史に大きな足跡を残した。

北前船の衰退
 日本海を舞台に人・物・情報の交流に貢献した北前船は、明治期になると衰退の一途をたどることになる。帆船である北前船が、大量の積荷を速く輸送できる汽船に徐々に駆逐されることになった。また、明治時代の中頃から国内の鉄道網が整備され、陸上輸送への期待が高まった。
さらに、北前船が運んだ大坂向けの上り荷である北海道の鰊・〆粕への需要が減ったことも衰退の一因であった。国内産の綿は外国産に、光源としての菜種油は電灯に、藍は化学染料にそれぞれ移行するに伴い、魚肥の使用量が落ち込んだためである。
(県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

一口メモ
「北国船・羽ヶ瀬船」

北前船の主力となった弁才船型と違い、帆の他に櫂(かい)も用いた。そのため大勢の水夫を必要とした。

※ この記事は、陸奥新報社の承認を得て、2007年8月27日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-17 09:00 | 北のミュージアム

津軽地域への鉄道建設-青森~弘前間の開業まで

津軽の遺産 北のミュージアム 第18回

日本鉄道の設立
 明治5年(1872)、新橋~横浜間に日本初の鉄道を建設した政府は、日本各地への鉄道建設を意図していた。しかし、財政難によりその動きは緩慢なものであった。政府は、鉄道局による東京~高崎間の鉄道の起工を明治13年(1880)に認可するが、財政上の問題によりその年のうちに認可は取り消しになった。
 そのようななか、明治14年11月、政府の官僚であった安場保和(やすばやすかず)らが、華士族の金禄公債を資本に鉄道を建設するという建議書を右大臣岩倉具視に提出した。
 岩倉はこれに賛意を示し、翌月東京から高崎、青森までのほか、北陸・九州などへの鉄道建設をも視野に入れた構想を発表した。その後、華族や沿線の県令(のち県知事)、第十五国立銀行などの協力を得て準備が進められ、日本鉄道株式会社が設立された。以後、同社は現在の高崎線・東北本線にあたる路線などを建設し、東日本一帯に路線を持つ日本最大の私設鉄道会社として発展することになる。

弘前の鉄道誘致
 この頃、津軽の政界の実力者たちが日本鉄道に提出した意見書が、『青森県史資料編 近現代1』で紹介されている。明治14年に大道寺繁禎・菊池九郎・本多庸一ら6名が連名で出した「鉄道線ニ付意見書」である。そのなかには、日本鉄道の東京~青森間の鉄道が、距離数からみて三戸・野辺地経由であろうことを指摘した上で、この鉄道の盛岡以北のルートを変更し、秋田県鹿角郡、青森県津軽郡を経て青森に達するべきである、との主張が盛り込まれている。三戸・野辺地経由のルートがふさわしくない理由を大道寺らは、
(1)海岸に近い区間があり、戦時には攻撃を受けるおそれがある。
(2)険しい山や急流があり、鉄道の建設には向かない。
(3)人口密度が低く生産力が低い地域を通る。
としている。
 明治18年(1885)、山形県で鉄道を誘致する動きがあり、秋田県でも同様の動きがあった。青森県では津軽地方の有志が、青森から秋田県境の矢立峠までの鉄道建設を建議している。しかし、いずれもすぐには鉄道の建設に結びつかなかった。

盛岡~青森間の建設
 明治20年(1887)12月10日、一ノ関~青森間の線路について、井上勝(いのうえまさる)鉄道局長官は大山巌陸軍大臣と協議した。大山は、三戸~青森間は海岸に接し、戦時に敵軍に破壊されたり利用されたりするおそれがあるので、盛岡から田頭(現岩手県八幡平市)・大館・弘前を経て青森に通ずるルートに変更するべき、と述べた。これは、大道寺らの意見書とよく似た主張である。
 しかし翌21年、井上は伊藤博文首相に対し、このルートは山間部で工事が困難であって経費がかさむなどの理由で、原案通り野辺地経由のルートでの着工すべきと上申した。
 結局この上申が認められ、同年5月10日に工事が着手され、同24年9月1日、上野からの鉄道が青森まで全通する。当時の新聞各紙は、青森での開通式の模様や町の人々の祝賀ムードについて伝えているが、そのなかには、この鉄道をさらに延伸し、弘前・秋田まで建設するべきと論ずる者もあった。
 この頃、盛岡~青森間の鉄道開業を記念して『日本鉄道陸奥地方画譜』(県立郷土館蔵)が、川口月村により製作された。これは同区間の沿線の様子を50枚の絵にまとめたもので、鉄道開業当時の風俗や風景を知る上で貴重な資料である。
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『日本鉄道陸奥地方画譜』より
「青森県東津軽郡善知鳥前国道ヨリ久栗坂隧道遠望」

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「青森県下堤川鉄橋ヨリ岩城山ヲ望ム」

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「青森市街大雪之図」


鉄道敷設法と弘前への鉄道
 日本鉄道は明治23年3月に青森~弘前間の工事を政府に出願している。しかし、同24年10月10日の閣議で却下された。鉄道国有化を目指す井上の意向によるものと考えられる。
 井上は同年7月、「鉄道政略ニ関スル議」を内閣に提出し、私鉄を国有化すること、全国的な敷設(ふせつ)計画を立てて」国が公債を発行して鉄道を建設することなどを提案した。そのなかの、国が建設すべき路線には、現在の奥羽本線にあたる路線が含まれている。
 「鉄道政略ニ関スル議」は閣議で了承され、「鉄道公債法案」「私設鉄道買収法案」として帝国議会に提出された。明治24年12月の第二議会では否決されたものの、翌25年の第3議会では、議員が出した鉄道の拡張を行ういくつかの法案とまとめて審議され6月21日に可決成立、鉄道敷設法として公布されることになる。
 その第2条で「奥羽線」は「福島県下福島近傍ヨリ山形県下米沢及山形秋田県下秋田青森県下弘前ヲ経テ青森ニ至ル鉄道(下略)」と定められ、さらに第7条で「第一期」に実測・敷設すべき路線として規定された。
 かくして、明治26年7月に奥羽線の青森~弘前が着工され、翌27年12月1日、晴れて開業を迎えた。
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(青森県立郷土館 研究主査 佐藤良宣)

○ひとくちメモ
「井上勝」

 天保14年(1843)、萩(長州)藩士の家に生まれた。伊藤博文らと脱藩してイギリスに留学し、土木工学などを学んだ。明治4年(1871)に鉄道頭となり、以来、長年にわたり鉄道関係部局の長を歴任し、政府の鉄道運営を主導した。

※ この記事は陸奥新報社の承認を受け、2007年7月23日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-10 09:44 | 北のミュージアム

パレオパラドキシア-深浦に謎多き化石動物

津軽の遺産 北のミュージアム 第17回
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産出したパレオパラドキシアの左寛骨



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化石が含まれていた深浦町塩見崎の田野沢層


化石の発見
 平成18年(2006)4月、深浦町塩見崎付近の海岸で、青森県では初めて、パレオパラドキシアの化石が発見された。発見されたのは左の寛骨(かんこつ)で、背骨と大腿骨を繋ぐ骨盤にあたる部分である。日本におけるパレオパラドキシアの化石産地は34か所だが、臼歯(きゅうし)の発見例が多く、寛骨のみの発見は初めてである。
 化石が発見された地層は、田野沢層と呼ばれる。化石は、木の化石「珪化木」や大型のカキ(貝)の化石が含まれた粗い砂の層に埋もれていたと考えられるため、当時は近くに河口がある海辺だったことが推測できる。田野沢層が堆積した年代は、およそ1,600万年前と考えられている。

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パレオパラドキシアと同じ束柱目に属するデスモスチルスの復元模型(秋田県立博物館蔵)

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岩手県宮古市和井内遺跡から発見されたパレオパラドキシアの臼歯化石(複製、岩手県立博物館蔵)


パレオパラドキシとは
 パレオパラドキシアは、ほ乳類の束柱目(そくちゅうもく)に属する。束柱目の最大の特徴は独特の形をした臼歯にあり、のり巻きを数本束ねたような形をしている。このような臼歯をもった現生ほ乳類はいない。血筋的にはゾウや海牛類(ジュゴンやマナティなど)に近く、共通の祖先から進化したと考えられている。
 パレオパラドキシアはどのような姿をしていたのだろうか。モデルとなるような近縁動物が現生していないことから、研究者は発見された全身骨格を、解剖学の知識を用いて復元している。その姿は、カバのような胴体にワニのような横に張り出した太い手足がついているという、は虫類のようなものであった。陸上を歩くときは腹を引きずっていたかもしれないが、海の中では機敏に動けたと考えられている。成獣は体長2~3メートル、体重2~3トンと推定されている。

何を食べていたのか パレオパラドキシアは、鼻の穴が後退しており、目は高い位置にある。これらは、鼻や目を水面上に出して泳ぐ動物が備える特徴である。しかし同時に、ひれ足ではなく太い頑丈な四肢をもつ陸上動物の特徴も備えていた。水・陸両方の動物の特徴を兼ね備えていたパレオパラドキシアは、カバのように水中で休息し、陸上でエサを食べたのだろうか。それともトドやセイウチのように、水中でエサをとって陸上で休んだのだろうか。
 頭骨の構造から、パレオパラドキシアは頭を上下左右によく振っていたと考えられた。また、下顎(したあご)の切歯が6本、密に並んで前方に伸びていることから、これがシャベルのような働きをし、エサを掘り起こしていたと考えられる。
 体形からみて、おそらく1日の大半は水中で過ごし、海草を食べていたのではないかと思われる。しかし、決め手となる証拠は、今のところまだない。

時代と分布と環境
 パレオパラドキシアは、これまでに発見された化石により1,400万年前から2、300万年前に、日本列島中北部から北アメリカにかけての北太平洋沿岸域に生息していたことが分かっている。化石の発見数から、かなり繁栄した動物ということができ、特に日本周辺にはたくさん生息していたようだ。
 パレオパラドキシアが生息していたのは、大陸の一部だった日本列島が大陸から離れ始め、日本海が誕生した時期にあたる。特に1,600万年前の北東北の環境は、大小様々な島が浮かぶ多島海であり、南から暖流が入り込んで、熱帯から亜熱帯の気候になっていた。岩手県一戸町のこの時期の地層からは、マングローブ湿地に生息する貝の化石が発見されており、現在の沖縄のような気候だったと考えられている。このような暖かで浅瀬が広がる海に、パレオパラドキシアは繁栄していた。

なぜ絶滅したのか 
パレオパラドキシアの化石は、日本では、今から1,400万年前より後の地層からは見つからない。束柱目の化石と一緒にサメの歯の化石もよく見つかることから、サメに滅ぼされたという説や、当時繁栄し、より水中生活に適した形態をもつ海牛類との生存競争に敗れたという説がある。
 一方で、1,600万年前の熱帯~亜熱帯の温暖な気候から寒冷化が進み、それに適応できなかったという説もある。このように、パレオパラドキシアはまだまだ謎の多い動物である。今後の新たな発見と研究によって、これらの謎が解き明かされていくはずである。
(青森県立郷土館学芸主査 島口天)

○ひとくちメモ「パレオパラドキシア」これは学名で、「古くて矛盾だらけのもの」という意味がある。和名がつけられていないため、学名で呼んでいる。

※ この記事は陸奥新報社の承認を得て、2007年7月16日付け陸奥新報より転載 したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-10 09:19 | 北のミュージアム

イワキサンクジラ発掘

津軽の遺産 北のミュージアム 第16回

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左:発電機等の機材を運搬中 右:発掘現場の中村川

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削岩機による発掘開始

化石の発見・発掘
 岩木山の南西麓を流れる中村川は、木の化石「珪化木」や動物化石がよく見つかる川である。この中村川で、平成2年(1990)秋、青森県立郷土館によるクジラ化石の発掘が行われた。
 このクジラ化石は、弘前大学の学生が地質調査を行った際に発見したもので、発見時には尾椎(びつい)の一部が河岸の崖に露出していた。その後、県立郷土館と岩手県立博物館の調査によって椎骨が連続して埋もれている可能性が指摘され、頭部の一部も発見されたことから、ほぼ一頭分のクジラ化石が埋もれていると考えられ、本格的に発掘を行うことになった。
 化石の産出ポイントに行くには、嶽温泉から湯段温泉を通って中村川へ向かう林道を車で下り、さらに山道を下流側へ歩いて40分程かかる。山道は狭く、何本か沢を越えなくてはならないが、特に大変なのは産出ポイントまで下る最後の斜面で、標高差30メートル以上の急斜面である。
 発掘には、化石が埋もれている崖の上を崩すための削岩機や、それを動かすための発電機などが必要で、それらを一輪車に乗せて山道を運んだ。途中の沢を越える時は一輪車にロープを繋ぎ、何人もの職員が力を合わせて引き揚げた。
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ハンマーによる手作業での発掘に移行

発掘の現場から
 発掘は1週間に及び、その間、近くに宿をとって現場と往復しながら作業が進められた。化石が埋まっている層の近くまで削岩機で掘り下げ、その後はハンマーによる手作業となった。椎骨は予想通り連続して産出し、その周囲から肋骨(ろっこつ)や肩甲骨、上腕骨、尺骨(しゃっこつ)、橈骨(とうこつ)、指骨、下顎骨(かがくこつ)などが次々に産出した。最終的には頭部や尾部の一部を欠くものの、ほぼ一頭分のクジラ化石が得られた。産出した化石は番号を付けて記録をとり、岩木高校の生徒達の力を借りて林道まで運んだ。
 県立郷土館に運ばれた化石は、まず、表面についた泥を落とさなければならなかった。化石が発掘された地層はまだ硬い岩石になっていない状態の泥だったため、小さなハンマーとタガネで少しずつ砕きながら落とすことができた。また、化石の方は暗茶褐色の石に変化していて硬く、泥とは硬さの違いがはっきりしていた。このため作業は困難ではなかったが、連続2時間程で手がしびれてくる上、仕事の都合上、毎日作業をすることができなかった。結果的に作業が終了するまで、十年以上の時間を要した。
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イワキサンクジラの産出状況

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イワキサンクジラの鼓室胞

クジラ化石の研究
 イワキサンクジラが泳いでいた頃の青森県は、どんな環境だったのだろうか。それを知る手がかりは、化石を含んでいた地層にある。
 この地層は「赤石層」と呼ばれ、化石を含んでいた部分は600万~700万年前に堆積したと考えられている。化石を含んでいたのは泥であるが、赤石層は泥と細かい砂や火山灰が重なり合う互層となっており、水深数百メートル以上の海底で堆積したようだ。この頃の青森県はほとんどが海の底で、もちろん岩木山もまだなかった。
 そんな大海原を悠々と泳いでいたと思われるイワキサンクジラは、理由はわからないが、ある時死んでしまい、深い海底に沈んだ。化石が地層に埋もれていた状態から、イワキサンクジラは海底に着底後、腐敗が進んで分解されていったと考えられる。椎骨などは、下半部は泥に埋もれたようで保存状態がよく、泥から出ていた上半部は溶けている。
 いったい、イワキサンクジラとは、どのようなクジラだったのか。
 クジラの種類を決めるのに重要な部位として、鼓室胞(こしつほう)がある。これは耳の奥にあるソラマメのような形をした骨で、中が空洞になっており、クジラの種類によって形が違う。イワキサンクジラの場合、運よく左右二つの鼓室胞が残っていた。これと下顎骨、肩甲骨を現生のクジラと比較したところ、ヒゲクジラ類のナガスクジラ科に属する種だとわかった。ただし、この科に属する種の中に対比できるものはなく、イワキサンクジラは絶滅した種と考えられる。
 クジラ化石は、貝化石のように個体数が多くないため、同一種内での変異を知ることは難しい。イワキサンクジラも、複数個体の化石が得られれば、種を決めることができると思われる。
(青森県立郷土館学芸主査 島口天)


○ひとくちメモ
「クジラの種類」
 クジラは、ヒゲクジラとハクジラとに大きく分けることができる。ハクジラは、イルカやシャチ、マッコウクジラのように、歯を持つ仲間である。ヒゲクジラは、歯に代わってクジラヒゲと呼ばれるヒゲが上顎から口内に生えており、地球上最大の動物シロナガスクジラやミンククジラ、ザトウクジラなどがある。

※ この記事は陸奥新報社の承認を得て、2007年7月9日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-09 13:45 | 北のミュージアム

日本初の自然遺産-ブナ原生林残る白神

津軽の遺産 北のミュージアム 第15回

隆起し続ける白神山地
 白神山地は日本初の世界自然遺産で、平成5年(1993)、屋久島と共に登録された。世界最大規模のブナ林が原生的な状態(生きものと環境のバランスのとれた状態)で残っていることが評価された。炭焼きやマタギなどの人たちが厳正な掟(おきて)を守りながら自然とうまく付き合ってきた賜(たまもの)である。
 白神山地は海底に堆積した火山噴出物や土砂からなる地層が隆起してつくられた。そして現在も激しい隆起が続き、そのスピードは日本でも有数であるという。また、シベリア寒気団の影響で多量の雪が降り、雪がもたらす大量の水によって浸食を受け、急峻な地形がつくり出された。そのため、雪崩等による崩壊が多い山である。

氷河期の生き残り(遺存種)
 地球の気候はこれまで寒冷な氷期と温暖な間氷期とを繰り返してきた。寒冷化により本州と北海道、大陸が陸続きになった際、北方系の植物が南へ広がった。氷期が終わって気候が温暖になると、それらの植物は再び北へ移動したが、一部は山の上へと移動したことで生き延びた。これらは氷河期の生き残り(遺存種)といわれ、ごく限られた地域にだけ分布する。その中でも、白神山地で発見され、新種として発表された「白神山地を代表する植物」を紹介する。
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アオモリマンテマ(ナデシコ科)

膨らんだガクをもつナデシコ
 アオモリマンテマは、その名のとおり青森県で採集されたものに基づいて新種発表、記載された。当初、中・西津軽郡で発見されたが、後に津軽半島や秋田県の一部(男鹿半島、和賀岳)にも分布していることが分かった。
 昭和14年(1939)、青森県博物研究会により刊行された『青森県博物総目録』に村井三郎氏が「エゾヤママンテマ」と記録したものが本種に相当する。しかし、当時は写真や線画が豊富な図鑑がなく、北海道で発表されたものと青森県のものが同一であると村井氏が考えたのもやむを得ないことである。昭和30年代後半から40年代にかけて、地元で植物を研究していた複数の人から水島正美博士(ナデシコ科分類の専門家)のもとへ情報が寄せられた。水島博士は現地を訪ねて自らも採集し、ほかの採集品と併せて入念に検討し、新種発表の論文原稿をほぼ完成させていたが、病気によって他界された。そこで水島博士の恩師である原寛博士により新種として発表・記載された。
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シラカミクワガタ(ゴマノハグサ科)

昆虫に似た名をもつ植物
 シラガミクワガタは「白神」の名をもつ唯一の植物で、花弁には濃色の条があり、花後、果穂は伸びる(写真)。昆虫に似た和名のため間違えられることがあるが、果実期のガクが兜(カブト)に付いている鍬形(くわがた)に似ることに由来する。春早く野原で見られる青色花のオオイヌノフグリと同じ仲間である。当初、ミヤマクワガタであると考えられたが、近年、新種とされた。前述の『青森県博物総目録』にも「ミヤマクワガタ(ミヤマトラノヲ)山地岩石地(出羽丘陵)vr(注=非常に少ない)」の記録がある。平成5年、山崎敬博士により、西津軽郡や秋田県八森(能代市)で採集された標本と東京で栽培された標本(西津軽郡産)に基づいて新種発表された。青森・秋田県にまたがる白神山地のごく限られた岩場でしか見つかっていない。
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岩の割れ目に生えるツガルミセバヤ

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ベンケイソウ科としては珍しい白色花

旺盛な生育の植物
 ツガルミセバヤはベンケイソウ科に属し、葉が厚く、強い乾燥にも耐える。岩の割れ目などわずかな窪(くぼ)みにしっかりと根を張り、時には葉のつけ根に不定芽をつくり、繁殖力は旺盛である。前述の『青森県博物総目録』にある「ヒダカミセバヤ(エゾミセバヤ)山地岩石地(出羽丘陵)」が本種に相当する。地元の協力により、昭和31年(1956)に西津軽郡産の個体(生品)が原博士のもとへ届けられると新種らしいとの返事があったという。翌昭和32年、原博士は東京で栽培し、開花したものをもとに新種発表された。その後、大場秀章博士によって、ロシアのウスリー地方のものと近縁であることがわかり、学名が変更された。平凡社発行の『日本の野生植物 草本Ⅱ』には、向白神岳産の株の写真が掲載されている。その後、白神山地のほかに、津軽半島や青森市の山地などにも分布していることが分かっている。秋になると全体が紅葉して美しい。
 これらの植物は、いずれも崩壊しやすい岩場に生え、他の植物との競争を避けてきたことが窺われる。
 また、新種発表に使われた標本(タイプ標本)はいずれも東京大学総合研究博物館に保存され、類似したものが現れた際に比較検討される。
 今回紹介した植物の一部は、青森県立郷土館で展示・紹介されている。
(県立郷土館研究主査 神 真波)


○ひと口メモ
「学名」万国共通の名。ラテン語で表記され、つけ方には国際的な約束がある。
「和名」日本各地で一般的に用いられる名前。特に定められた約束はない。

※ この記事は、陸奥新報社の承諾を受け、2007年7月2日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-09 13:29 | 北のミュージアム

多彩な津軽半島の植物

津軽の遺産 北のミュージアム 第14回

変化に富む津軽半島
 津軽半島は、岩木山の裾にひろがる津軽平野、標高600メートル前後の山が連なる津軽山地、七里長浜などの砂浜海岸、龍飛崎や小泊岬など断崖のある岩石海岸と、その地勢は実に変化に富んでいる。北緯40度を超える北に位置し、ヤマセの影響を受けることもあるので、標高が低いわりに、亜高山や亜寒帯に生育する植物も見られる。


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ヒバ林に生育するヒメホテイラン=一戸清志氏写真提供
…ヒバ林(時にスギ林)の春を彩るラン



ヒバ林のラン
 耐久性に優れ、建材として珍重されるヒバ(ヒノキアスナロ)林では、春にピンク色のヒメホテイランが美しい姿を現す。10センチほどの茎の先に花を一個つけ、和名は唇弁の形を布袋(ほてい)の腹に見立てたことに由来するという。青森県のヒバ林にあることは古くから知られていたが、本州中部のホテイランと混同されていた。その後、唇弁の距(きょ=蜜を蓄える部分)があまり長くないという違いが認められ、現在の名で呼ばれるようになった。ヨーロッパから北アメリカまでの針葉樹林下に広く分布するが、日本では、北海道の一部(定山渓・渡島地方)と本県だけに生育する。近年、ヒバ林の減少と盗掘によって、ほかのランと同様、急激に数が減少している。一般にランの種子は非常に小さく、胚乳等の養分貯蔵組織を持たない。このため、自力では発芽できず、ラン菌が共生することで初めて発芽する。自然界でゆっくりと増殖・生育するランは、環境の変化や人間の手によって絶滅してしまう恐れが、特に大きい植物である。

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チョウジソウ(キョウチクトウ科)
濃い青紫色の筒状の花が印象的である


北限の植物
 青森県を北限とする植物の一つであるチョウジソウは、本州・九州の川岸や原野の湿地に分布する。その可憐さ故に利用が多く、全国的に個体数が減少しているが、津軽平野には湿地やため池が多いので、今でも見られる所がある。キョウチクトウ科という聞き慣れないグループに属し、その花の形は独特である。また、その美しい姿に似合わず毒を持つという。



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イトハコベ(ナデシコ科)
その名のとおり茎は細く、5枚の花弁は二裂する


 

日本海側に唯一の産地
 屏風山(びょうぶさん)湿原のイトハコベも青森県が北限で、本州(東北・関東)に稀に分布する。1901年、牧野富太郎により関東平野の湿地にあることが発表された。東北では青森・宮城県に分布するが、いずれも生育地が限られ、個体数も少ない。岩手県にも記録はあるが、最近は確認されておらず、不明である。山形県では絶滅したことから、青森県の産地は北限で、しかも、現存する日本海側唯一の産地である。
 イトハコベが本県で発見されたのは1976年で、地元の教育委員会から調査を依頼されたメンバーによるものであった。その後、別の場所で1,000本前後の群生が確認されたが、その多くが道端にあったため、ほかの草と一緒に刈り取られたり、新聞に大きく掲載されたことで盗掘が相次いだ。また、当時は全国的に多くの湿地が開墾され、津軽地方も例外ではなかった。現存が確認されているのは一か所だけで、今ではわずか10株前後がひっそりと生育する程度である。青森県のレッドリストでは、絶滅の危機寸前の最重要希少野生生物に指定されている。



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オオウメガサソウ(イチヤクソウ科)
本県以外では産地が少ない、大型の花をつけるイチヤクソウ

 海岸近くのやや乾いた林下で見られるオオウメガサソウは、青森県では下北半島の一部と津軽半島の一部に見られる。ヨーロッパ・北アメリカの亜寒帯に分布し、日本では北海道・本州(青森・岩手・茨城)にあるが、津軽半島のものは本州では日本海側の唯一の産地である。淡紅色の花が茎の先に房状につく。
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アマナスミレ(スミレ科)
太平洋側の海岸に適応したアツバスミレに対応するスミレ


日本海の海岸に適応したスミレ
 アナマスミレはスミレの海岸型で、日本海側の砂浜や岩上に生え、北海道の礼文島(れぶんとう)から鳥取県まで分布する。和名は礼文島のアナマ岩で発見されたことに由来する。風の強い海岸に適応し、葉は厚く光沢があり、内側に巻く。津軽半島で撮影したこの写真のものは、花茎の毛が濃く、海霧を吸着し、強風による水分不足に適応している。日本海側に広く分布すると考えられるが、注意して観察されることが少なく、産地などの情報が少ない植物である。
(青森県立郷土館研究主査 神 真波)

ひと口メモ
「花弁・花びら」
ランの花の構造は3個の萼片(がくへん)と3個の花弁(かべん)からなり、中央一個の花弁は特殊化して唇弁(しんべん)と呼ばれる。

※ この記事は陸奥新報社の承認を得て、2007年6月25日付け陸奥新報より転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-09 11:33 | 北のミュージアム

希少な生物暮らす白神

津軽の遺産 北のミュージアム 第13回

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白神山地のブナ林


世界遺産「白神山地」
 白神山地は、平成5年(1993)12月の第17回世界遺産委員会において、世界遺産(自然遺産)として登録された。広大なブナ天然林地域として、高く評価されたのである。白神山地では、多くの生き物たちが生態系の調和を取りながら暮らしている。

白神山地の脊椎(せきつい)動物 
 白神山地には、ニホンツキノワグマをはじめ36種類のほ乳類が確認されている。その中には国の天然記念物に指定されているヤマネ、特別天然記念物のニホンカモシカも棲息している。ほかには渓流沿いに棲み、小魚や水生昆虫などを水中に潜り込んで捕食するニホンカワネズミ、樹間を滑空するムササビなども確認されている。また、白神山地の樹洞や洞くつから、カグヤコウモリ、モリアブラコウモリなど12種類のコウモリが確認されている。
 鳥類はクマゲラをはじめ85種類、は虫類はタカチホヘビほか9種類、両生類はトウホクサンショウウオなど13種類が確認されている。

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エゾゲンゴロウモドキ


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シラカミメナシチビゴミムシ


白神山地の無脊椎動物
 白神山地は、自然環境がとても良い状態で残された地域で、そこに棲息する昆虫は多種多様である。白神山地だけで認められる固有種、北限・南限の種類、希少な種類など、数多くの注目される昆虫が棲息している。豊かなブナ林は豊かな土壌をつくり、無脊椎(むせきつい)動物たちにも、豊かな生活場所を提供している。
 平成4年(1992)7月、白神岳において、青森県立郷土館の調査による貴重な発見があった。体長が約3.5ミリメートルしかない非常に小さいゴミムシの仲間が、土壌から採集された。今まで知られていなかった種類で、発見の翌年「シラカミメナシチビゴミムシ」として新種記載された。白神山地にしか棲息していない固有種である。この種類は名前からわかるように眼は退化して痕跡的に認められる程度で、さらに翅(はね)も退化してなく、体長も微小である。湿った土中の生活を好み、土中での生活に適応した体形をしている。体の構造からも移動範囲が非常に狭く広域での移動は不可能であり、棲息範囲も大変狭い。このため、伐採などでまわりの環境が急激に変化し、土壌が乾燥してきても逃げることができない。環境の悪化により短期間での絶滅を起こす可能性の高い種類である。この種類が白神山地で発見されたのは、白神山地が今まで伐採されることもなく、手つかずで、古くから自然の状態が良好でそのまま残されてきた場所だからこそで、その証になる昆虫である。
このほか、白神山地の豊かな腐葉土(ふようど)には数え切れないほどの無脊椎動物が棲息している。ブナ林の落葉や倒木を土壌に変える役割を担っている動物である。ミミズ類のほかに、体長が一センチメートルもない昆虫のトビムシ類がいる。翅が退化してなく、無翅(むし)昆虫類とも呼ばれている。赤石川の腐葉土からはクロトビムシモドキなどが、櫛石山(くしいしやま)の腐葉土や追良瀬川のブナ倒木上のコケからはニッポントゲトビムシなど多くの種類が確認されている。また、ブナ倒木からは体長四センチメートルもあるオオゴキブリが採集されている。自然環境が良好な森林にだけ棲む森林性のゴキブリである。これらの生き物がブナ林を支えている。
 白神山地には「ノロ沼」「十二湖」などの沼があり、川の流れからとり残された水溜(たま)りもたくさんある。これらはブナ林から湧き出てきた清らかな水をたたえ、トンボの幼虫やゲンゴロウなどの水中で生活する昆虫がたくさん棲息している。赤石川上流の神秘的で美しい「ノロ沼」からは、オオルリボシヤンマ幼虫、メススジゲンゴロウ、マメゲンゴロウ、ミヤマミズスマシなどが確認され、白神岳山頂の水溜りからはルリボシヤンマやタカネトンボの幼虫が確認されている。白神山地ではブナ林だけでなく、沼にも豊かな生物相が見られる。
(青森県立郷土館 学芸主幹 山内智)

※ この記事は、陸奥新報社の承認を得て、2007年6月18日付け陸奥新報の記事を転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-20 13:33 | 北のミュージアム

親しまれてきた岩木山

津軽の遺産 北のミュージアム 第12回

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岩木山(岩木高原から望む)


岩木山の生い立ち
 津軽平野の南端部にそびえている「岩木山」は昔から「津軽富士」と呼ばれ、信仰の対象として、山菜の収穫場所として人々に親しまれてきた山である。弘前方面から見ると、山頂は南側から鳥海山、岩木山、巌鬼山の三峰に分かれ、中央の岩木山が1625.2メートルと最高峰である。
 岩木山は火山活動によってできた山で、山ができはじめたのは新生代第四紀更新世(約170万年前~1万年前)中頃と言われている。その後、火山活動を繰り返し今の岩木山の形になった。火山活動は今でも続いており、噴火は文久3年(1863)を最後に起こっていないが、昭和45年(1970)には西側の赤沢付近で火山性異常現象が起こっている。岩木山は今も生きている。

岩木山の植物たち
 岩木山は、標高500メートル以下ではミズナラなどの雑木林が広がり、部分的にススキ草原やリンゴ園などが見られる。さらに標高500メートルを越すあたりからブナ林が発達し、標高が増すごとにチシマザサが増えてくる。1,000メートルを越すあたりからはミヤマハンノキやダケカンバを中心とした高山低木林となる。岩木山では、変化に富んだ植物分布を見ることができる。
 フランス人宣教師で、布教のかたわら植物の調査研究をしていたフォリー神父は、岩木山でサクラソウの一種を採集し、明治19年(1886)に新しい植物として名前を付けたのがミチノクコザクラである。岩木山特産種の植物である。

岩木山の動物たち
 
 岩木山の動物については、古くから多くの研究者によって調査されている。岩木山の脊椎動物の代表はニホンツキノワグマで、畑などに出没している。この他に里山近くには世界最小の肉食類と言われているニホンイイズナや、山頂付近には肉食性のホンドオコジョが棲んでいて、ネズミやモグラ類、鳥類などを補食している。この他に、ホンドタヌキ、ホンドテン、ホンドイタチ、ニホンアナグマ、トウホクノウサギや、樹木間を滑空するニッコウムササビなどが山麓から中腹にかけてのミズナラ林やブナ林で生活している。

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種蒔苗代(爆裂火口にできた沼)


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チビヒサゴコメツキ


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ヨモギハシロケタマフシ


岩木山の昆虫たち
 外国人で、岩木山の昆虫を初めて採集し紹介したのは英国人ルイスである。ルイスは明治13年から14年にかけて日本各地で調査を行い日本の昆虫相を次々と解明した。採集日程が明確に残されており、明治13年8月30日に函館の帰り青森に上陸し、8月31日には弘前に入り、岩木山へ登って9月2日には青森に戻っている。ルイスがこの時に採集した標本で名前が付けられた昆虫にはヒメマルクビゴミムシ、ヨツアナミズギワゴミムシ、ヒメスジミズギワゴミムシなど数多くある。
 この中で岩木山の名前のついたイワキナガチビゴミムシは、東北地方北部の渓流の湿った石の下に生息するゴミムシである。また、山頂で2匹の体長5ミリメートル内外の小形のコメツキムシを採集している。後にチビヒサゴコメツキと名前が付けられた。日本の代表的な高山性のコメツキムシで、岩木山では錫杖清水(しゃくじょうしみず)や種蒔苗代(たねまきなわしろ)などで採集されている。このコメツキムシの記載文のなかに、9月1日に採集されたことが書かれており、この日にルイスは間違いなく山頂まで登ったのである。明治の初めにどのようにして外国人が岩木山に登ったのか大変興味深い。
 岩木山でも、植物の芽、茎、葉などに大小様々なコブ状の膨らみが見られる。このほとんどは昆虫によって作られた「虫瘤(むしこぶ)」、種類によって形が異なる。このコブの中に幼虫が棲んでいる。山麓に見られるヨモギにはハチの一種タマバエ類によるヨモギハシロケタマフシ、ヨモギハエボシフシ、ヨモギメツボフシなどの虫瘤が見られる。
(青森県立郷土館 学芸主幹 山内智)

※ この記事は、陸奥新報の承認を得て、2007年6月4日付け陸奥新報より転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2007-12-20 13:27 | 北のミュージアム