津軽の遺産 北のミュージアム 第22回
白八幡宮祭礼の山車
特徴的な西浜の祭礼
弘前藩領で「四浦」と呼ばれた青森・鯵ヶ沢・深浦・十三の各湊や、盛岡藩領で「田名部七ヶ湊」と呼ばれた大畑・大間・佐井・牛滝・川内・大平・田名部の各湊には、海運がもたらした有形・無形の文化財が、数多く残されている。
そのひとつが、各地の山車(だし)祭りである。
鰺ヶ沢町の白八幡宮(しろはちまんぐう)神社は、鰺ヶ沢湾を一望できる高台にある。同社の縁起では坂上田村麻呂、または北条時頼の創建と伝える。鰺ヶ沢湊は江戸時代、弘前藩の保護の下、西廻り航路で上方へ藩米を積み出し、木綿・古着・塩・荒物・雑貨等を移入して繁栄し、日本海側の文化を受容した。同社の社殿にも、近世後期から近代にかけて海運業者が奉納した船絵馬が数多く掲げられている。
白八幡宮の祭礼は、4年に1度、8月14日から16日にかけて行われる。神社を出発した神輿渡御(しんよとぎょ)の行列が、鰺ヶ沢町内を練り歩き、御仮殿を目指すもので、各町の山車10台が付き従う。最終日には、再び御仮殿を出発した神輿が海上を渡り、白八幡宮へ戻る。
祭礼の史料上の初見は延宝7年(1679)で、元禄10年(1697)には隔年で行われていた。天保年間(1830~43)には、多数の船が出入りしていた湊の繁栄を受け、にぎやかな飾山となっていたようだ。
明治初期の中断を経て、明治23年(1890)に隔年行事として復活し、昭和15年(1940)まで続いた。第二次大戦中は自粛していたが、昭和23年に復活し、今に至る。次回は平成21年の予定である。
塩釜神社のカシ祢宜
海からきた山車
各町の山車は、四輪の台車に2階建てで、下には囃子方(はやしかた)が乗り込み、上には町ごとの人形が乗る。町会のなかには、天保年間の飾山を明治期まで使用していた事例がある。特に田中町の「神功皇后」(じんぐうこうごう)の人形は、天保9年(1838)に京都祇園祭の山車用として制作されたものを購入したと伝えられ、山車の意匠に海運が与えた影響力の大きさをうかがわせよう。
また、祭礼に付随する芸能も、海運によってもたらされた。新町の塩釜神社では、安永9年(1780)、当地の商人が大坂からの帰りに仙台の塩釜明神の祭礼から習い伝えたという「カシ祢宜」(かしねぎ)が、少年たちによって舞われる。
描かれた持衰
海が運んだ文化はそれだけではない。木材を上方へ積み出す際の風待ち湊として栄えた深浦湊には、真言宗の古刹円覚寺がある。坂上田村麻呂の創建と伝えられ、澗口観音(まぐちかんのん)として、全国の船乗りの信仰を集めてきた。近世後期から明治にかけて奉納された船絵馬の多くは、国の重要有形民俗文化財に指定されている。なかでも、寛永10年(1633)の「北国船図絵馬」は、自らの命と引き換えに船の安全航行を祈願したという宗教者「持衰」(じさい)の姿を描いた、有数の貴重資料である。
また、嵐から逃れた船乗りたちが、自分の髻(もとどり)を切って板に打ちつけて奉納した髷額(まげがく)は、当時の船乗りの習俗を物語る。
嵐から船乗りを守る円覚寺の竜灯杉
文化のネットワーク
円覚寺には、「奉納 金比羅宮 前句」と題された天保11年の俳諧額なども奉納されている。当地の俳諧文化の高揚を示すものである。
江戸時代、俳諧に親しむためには、全国レベルの有力な撰者と定期的に交流する手段を持ち、自らの句を句集に掲載してもらうための金銭の授受が必要であった。それらの条件を満たしたのが、繁栄した湊の商人たちであった。
例えば鰺ヶ沢の船問屋池田晋安は、享保7年(1722)に句集「そとの浜」を編み、西浜で初めて松尾芭蕉につながる正風俳諧を打ち立てようとした。
また深浦では、明和4年(1767)に医師大高千○(おおたかちえん)と門下の竹越魚光・里桂親子が、津軽最古の芭蕉塚「千鳥塚」を建立した。竹越家は船問屋若狭屋の主人である。
特に里桂は、明和5年頃に上京し、各地の俳人や有名人と幅広い交流を持ち、紀行文「高砂子」(たかすなご)をまとめた(円覚寺蔵)。親交があった者の中には、「朝顔につるべ取られてもらい水」の句で全国的に有名な加賀千代女(かがのちよじょ)や、各地の習俗を詳細に記した菅江真澄(すがえますみ)らがいた。
俳諧は、海を介した文化のネットワークでもあった。
(青森県立郷土館 研究員 小山隆秀)
一口メモ
「持衰」(じさい)
有名な『魏志』倭人伝には、倭人の風習として、船で往来するときは必ず、安全祈願のために「持衰」を乗せたと記されている。頭髪にクシを入れず、ノミやシラミやアカだらけの衣服のままで、肉は食べず、女性も近づけず、喪に服したようにする。もし海が荒れて危険になれば、それを鎮めるために持衰を海へ投げ込んだという。
※ この記事は、陸奥新報社の承認を得て、2007年9月3日付け陸奥新報から転載したものである。