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北前船ものがたり

津軽の遺産 北のミュージアム 第21回

「北前」とは
 北前船(きたまえぶね)の称は、瀬戸内地方において日本海側を「北前」と呼んだことに由来している。しかし、日本海側では自らの船を「ばいせん」「どうばらかき」「ほまえ」等と呼んでいた。
 北前船は、大坂(大阪)を起点に瀬戸内海から日本海側の諸港をまわって北海道に至る買積船(かいづみぶね)である。買積船とは寄港した先々で安く仕入れた荷物を高く売りさばく船のことで、行き(下り船)は木綿・米・酒・塩・石材などを売り、帰り(上り船)は北海道の鰊(にしん)や〆粕(しめかす)・昆布・鮭等を買い込んで、大坂までの各港において売りさばいたのであった。
 また、諸藩の年貢米や大坂で売却する蔵米(くらまい)などの運賃積みもおこなった。

北前船前史
 室町時代に栄えた代表的な港を「三津七湊」とよぶ。そのうちの七湊はすべて日本海側にあることから、日本海を多くの船が行き来していたことがうかがえる。
 北前船が活躍するのは江戸時代中期以降と考えられている。前期は地域別に特徴ある廻船が使われ、日本海航路では北国船(ほっこくぶね)と羽ヶ瀬船(はがせぶね)と呼ばれる型の船が主役であったが、その後、高い帆走性能と優れた経済性を備えた弁才船(べざいせん)にその座を譲ることになった。
江戸時代前期の商人、河村瑞賢(かわむらずいけん)が幕府の命令により西廻り海運を改良するまでは、福井県の敦賀(つるが)や小浜(おばま)から琵琶湖を経由して京都や大坂に至るルートが使われていた。
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むつ市脇野沢で使用されていた「厚司」(当館蔵)
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北前船の乗組員たち
 北前船は通常、春から秋にかけての一航海であった。「船頭」は北前船の船主(親方)がなる場合と他の人を雇う場合があった。
 一般乗組員は「水主」(かこ)と呼ばれ、そのうち商品の保管や売買、金銭の出し入れを行う事務長兼会計係を「知工」(ちく)、水路及び航海の指揮担当者を「表」(おもて、船内の取り締まりにあたる「親父」(おやじ)、親父の監督下にある若い乗組員を「若衆」(わかしゅう)、炊事や掃除等を担当する最年少の見習水主を「炊」(かしき)と呼んで、それぞれ役割分担がなされた。
 船中では筒袖の綿入れである「どんざ」や、アイヌから入手した「厚司」(あつし)と呼ぶ樹皮製の着物を着用していた。
 乗組員にとって一番恐ろしいのは海難である。時化の時は強風にあおられぬように帆を下げ、または帆柱を切り倒し、さらに積荷も海中へ棄てた。神社に奉納された「船絵馬」には乗組員たちの安全航海への強い願いが込められている。
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山形岳泉筆『合浦山水観』より「鰺ヶ沢弁天崎」(当館蔵)
船鑑札(当館蔵)

青森の諸湊
 国内海運が整備・発達した江戸時代、弘前藩は「九浦制」を成立させた。九浦とは、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三・蟹田・今別の各湊と碇ヶ関・大間越・野内の各関所をさす。そのうち、青森・鰺ヶ沢・深浦・十三は「四浦」と呼んで町奉行をおいた。九浦制は、「両浜」と呼ばれた青森と鰺ヶ沢を中心とする流通統制機構であった。
青森湊は弘前藩2代藩主津軽信枚(のぶひら)の命により、藩士森山弥七郎がその開港に尽力した湊である。それまで善知鳥村(うとうむら)と呼ばれていた小漁村は「青森」と改称された。
 弘前藩における日本海海運(西廻り海運)の拠点とされたのは鰺ヶ沢湊である。年貢米を中心とする領内の米穀は、岩木川舟運で十三湊に集められたのち、鰺ヶ沢湊へ回漕され、そこで大型船に積み替えられて上方へ運ばれた。
深浦湊は中世以来、「風待ち湊」として利用された天然の良港である。
写真の「船鑑札」は、深浦の長七という者が持っていた2人乗りの船が日本各地で商売することを認めた許可証である。天保14年(1843)に奉行所が発給したもので、これを携帯して各湊の番所で提示した。

廻船問屋の活躍
 各湊では廻船問屋が活躍した。幕末の青森湊には13軒の廻船問屋が存在した。なかでも屋号を「滝屋」と称する伊東善五郎家は、弘前藩をはじめ黒石・仙台・久保田(秋田)の各藩及び蝦夷地の御用を命じられるほどの盛業ぶりであった。
 廻船問屋のなかには文化活動においても活躍した者が多く、深浦の廻船問屋若狭屋の竹越里圭は、父漁光とともに深浦俳諧史に大きな足跡を残した。

北前船の衰退
 日本海を舞台に人・物・情報の交流に貢献した北前船は、明治期になると衰退の一途をたどることになる。帆船である北前船が、大量の積荷を速く輸送できる汽船に徐々に駆逐されることになった。また、明治時代の中頃から国内の鉄道網が整備され、陸上輸送への期待が高まった。
さらに、北前船が運んだ大坂向けの上り荷である北海道の鰊・〆粕への需要が減ったことも衰退の一因であった。国内産の綿は外国産に、光源としての菜種油は電灯に、藍は化学染料にそれぞれ移行するに伴い、魚肥の使用量が落ち込んだためである。
(県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

一口メモ
「北国船・羽ヶ瀬船」

北前船の主力となった弁才船型と違い、帆の他に櫂(かい)も用いた。そのため大勢の水夫を必要とした。

※ この記事は、陸奥新報社の承認を得て、2007年8月27日付け陸奥新報から転載したものである。
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by aomori-kyodokan | 2008-01-17 09:00 | 北のミュージアム
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