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喧嘩するねぷた・ねぶた 第12回「ねぷた喧嘩の終焉」

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↑昭和30年代、弘前市若党町の子供ねぷた(佐々木直亮氏撮影、写真提供県立郷土館)



 ねぷた喧嘩防止策である合同運行が開発されると、昭和4年には弘前商工会が合同審査制を導入する。当初は過半数のねぷた組が反対したが、戦後の観光化で合同運行と合同審査制度が各地に普及・定着すると、自地域を中心に練り歩いていたねぷた・ねぶた達は、都市部のメインストリートでの合同運行を主目的とするようになり、昭和30年代には受賞争いが激化した。

 昭和8年、最後のねぷた喧嘩が弘前で行われたという。しかし筆者の民俗調査では、昭和30年頃まで各地で発生していたことが判明した。昭和7年まで深浦町では、浜町と陸町(おかまち)のねぶたが進路争いの口論から投石、ナタや木ぎれで乱闘した。昭和9年には青森市細越と浪館のねぶたが投石と喧嘩でメラハド(娘)を奪い合った。昭和16年頃の平内町では喧嘩太鼓の合図で乱闘し、ねぶたの首を奪い合った。昭和20年頃の旧木造町では、青壮年のねぶたが五所川原ねぶたと喧嘩し、戦利品として敵の太鼓などをかついできた。同町ではねぶた同士がすれ違うときに、土台の回りにつけた多くの小太鼓を乱打し、音響でねぶたが破れた方が負けとされた。青森市油川や旧平賀町本町でも「石を投げに行く」と出かけた。弘前市土手町では担ぎねぷたの若者達が乱闘となり、菓子屋につっこんで街灯が炎上した。同市富田町でも大型扇ねぷた同士で怒鳴りあい投石した。和徳町や品川町では進路を巡って怒鳴りあい、ヤーヤードーと囃してギリギリにすれ違った。昭和27年、五所川原のねぶたで進路を巡って投石し、刀や板で乱闘、放火し、警官が堰に投げ込まれた。

 しかし昭和30年代後半になると、明治・大正期の激しいねぷた喧嘩は、祖父母世代の過去の記憶となっていた。久しぶりに帰省した婦人が、弘前ねぷた同士が道を譲りエールを送りあう光景に驚く。藤崎町でもにらみ合ってすれ違うだけになっていた。この時期に失われたのが「草ねぶた」といい、子供達のみで自由にねぶたを作り、近隣を門付けする習俗だ。この草ねぶたは、大正末期の青森市宮田では互いに投石して喧嘩し、昭和20年代の藤崎町早稲田でも「ネプタっこ見てけじゃ~」と歩いて投石された。草ねぶたは、18世紀末菅江真澄が目撃した子供ねぶたや、近世弘前城下の子供ねぷたなどの都市祭礼化以前の習俗を彷彿させる。しかし昭和50年代以降、非行の原因とされて各学校が規制し、大人の管理下で行う「教育ねぷた」へ交替していった。

 このようにねぷた喧嘩の習俗は昭和期以降急速に失われた。現在その名残りは、ねぶたの類似習俗とされる岩手県陸前高田の「喧嘩七夕」等に窺える。しかし規制と津軽の民衆による違反との相克から生まれた多くの歴史的要素は、現代のねぷた・ねぶた行事の基本的構造のなかに脈々と息づいている。(完結)
(青森県立郷土館 小山隆秀)

出典=毎日新聞青森版 平成23年9月29日(毎日新聞社許諾済み)
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by aomori-kyodokan | 2011-09-29 16:53 | 喧嘩するねぶた・ねぷた | Comments(0)
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