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喧嘩するねぷた・ねぶた 第9回「喧嘩ねぷたの終焉」

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↑ねぷた喧嘩で活躍した和徳町が出したねぷた(大正期、写真提供西谷家)




 近世以来、何度も取締り令が出たねぷた行事であるが、近代には弘前市当局や警察でさえ「(ねぷたを)絶対に廃止するは頗る難事なるべし」という認識が生まれていた。大正11年には弘前警察署前で、上町と下町の激しいねぷた喧嘩が発生し、鎮圧不能とみた警察が消防非常招集の半鐘を鳴らした「半鐘事件」が発生するほどであった。

 しかし明治・大正期の日本国内は裸体、混浴、立ち小便、入れ墨などの日本の民衆の伝統的日常行為が、欧米人の価値観や美意識に沿うように、違式詿違條例(いしきかいいじょうれい)などで軽犯罪とされて取り締まりが始まった時代で、法的規制や警察による社会管理力が進んだ。ねぷた・ねぶた習俗も近代の論理と衝突する。明治34年、弘前の中学生のねぷた喧嘩が殺傷事件にまで発展すると、世論は喧嘩ねぷた根絶に傾き始める。

 大正3年、無軌道に移動して衝突するねぷた同士を、警察署長指揮下に一律方向に運行させて喧嘩を防止する、合同運行スタイルが導入された。やがてねぷたの笛太鼓が、弘前郵便局の電話交換操作に支障をきたす、という苦情が出たり、ねぷた行事を東京からの観光客向けに改良すべきだという意見も出現する。また「小なる喧嘩を捨て、国と国との大なる喧嘩をせよ」という意見が新聞を飾る。昭和4年には弘前商工会が、ねぷたの意匠や行列を審査する賞金制度を導入する。昭和8年、ねぷた喧嘩が発生しやすい区画の闇を無くするため、弘前市内二カ所に高燭電灯が設置された。

 この年、弘前では最後のねぷた喧嘩が行われた。「萱町(かやちょう)と和徳町(わっとくまち)の若いねぷた組達が激しい石合戦を始め、舗装工事用の砂利がすべて無くなるほどだった。その真ん中を、目と耳が不自由な老婆が、それとは知らずに提灯をさげて悠々と歩いていくと、投石がピタッと止んだ。巡査達がかけつけて喧嘩集団が四散した」故蘭繁之氏が教えてくれた実体験だ。昭和10年、ねぷた喧嘩の特別警備隊「新撰組」が結成。翌年は秩父宮のねぷた高覧で喧嘩が自粛される。その翌年には日華事変が勃発し、昭和19年の一時復活を除いて、昭和20年までねぷた祭り自体が無くなった。戦後昭和21年に復活した弘前ねぷたは、赤襦袢姿の女性の手踊りが並ぶ、和やかな雰囲気に変貌した。

 日本各地の祭礼で伝承されていた若者の儀礼的暴力は、近代国家の論理と相克しながら、組織的な警察力や軍事力で解体、再編されていった。近世以来のねぷた喧嘩も風土に根ざした伝統として容認される存在ではなく、大きく変化せざるをえなかった。現代の行事はこの延長上に形成されている。しかし都市のねぶた・ねぷた行事で失われた喧嘩などの習俗は、20世紀以降も周辺地域で息づいていく。
(青森県立郷土館 小山隆秀)

出典=毎日新聞青森版 平成23年9月1日(毎日新聞社許諾済み)
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by aomori-kyodokan | 2011-09-01 10:25 | 喧嘩するねぶた・ねぷた | Comments(0)
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