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喧嘩するねぷた・ねぶた 第7回「明治・大正・昭和(4)」

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↑「町道場明治館による皇太子殿下高覧のねぷた(明治41年、弘前市寺田勝美家蔵)




 弘前ねぷたで、近世の「喧嘩口論」から近代の喧嘩ねぷたへと継承された共通要素として、前回は、地縁による青壮年集団が母胎となっていたことと、喧嘩が一定の様式性を帯びた擬戦行為であったことを紹介した。

 その擬戦行為のなかの投石は、近世の喧嘩口論で怪我人を発生させた「石礫」が近代へと継承されたものである。かつて投石は身近な行為であり、例えば幕末の「士之心得雑記」(弘前市立図書館蔵)によれば、近世の弘前藩士は、護身や狼、魔物を避けるために投石することがあった。津軽のみの習俗ではなく「投石」「印地」「飛礫」などと呼んで、古くから日本各地の七夕行事や子供の遊びに含まれる行為であった。例えば文暦元年(1234)七月七日七夕の京都川崎惣社祭で、雑人が飛礫と矢を放ち、斬り合って死傷者が出ている。また河原などで子供達が悪態をつきながら投石する行為は、中近世から昭和二十年代まで全国各地で伝承されてきた。笹原茂朱の調査によれば、大正7年(1918)8月7日の弘前の喧嘩ねぷたでは、戦端を開く際に「どちらが先に投石したか」が問題にされたという。つまり無言の否定や、宣戦布告行為でもあり、昭和期まで弘前市以外の津軽各地のねぷたの喧嘩でも行われており、ときに「石打無用」と墨書されてきた伝統的な習俗なのである。

 さて近世から近代への三つ目の継承要素は、ねぷたが他町まで遠征する行為である。ねぷたが近隣をを移動し徘徊する性格を持つことは、18世紀に菅江真澄が津軽や下北で目撃した村落の眠り流し行事だけではなく、城下町の祭礼となっていたねぷたでも共通する要素であったと見られる。その行為は他ねぷた組との遭遇、つまり喧嘩の直接的原因につながる。実際に18世紀後期の弘前ねぷたは、他町へ自分の町印を掲げて出向く行為を繰り返しており、やはり投石、喧嘩口論、ねぷたの争奪が発生している。幕末にはそれに加えて組ねぷたによる門付け行為も付随した。そのため弘前藩は毎年のように規制したが止まず、このようなねぷたの移動性は、近現代の我々まで受け継がれている。

 次回は、近代の弘前ねぷたの喧嘩で、最も凄惨だったという町道場同士の対立「北辰堂襲撃事件」を紹介する。
(青森県立郷土館小山隆秀)

出典=毎日新聞青森版 平成23年8月11日(毎日新聞社許諾済み)
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by aomori-kyodokan | 2011-08-11 16:56 | 喧嘩するねぶた・ねぷた | Comments(0)
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