↑「喧嘩ねぷたの激戦区だった上町の弘前市鍛冶町青年団のねぷた」(大正末期の絵はがきより)」
弘前ねぷたで、近世の「喧嘩口論」から近代の喧嘩ねぷたへと継承された共通要素は三点あげられる。まずは喧嘩集団が、身分や地縁による少年から青壮年の男性達で構成されたことである。そのような帰属集団の違いによる対立感情は、近代の日常生活でもあった。明治26年(1893)頃まで弘前市内の各小学校による連合運動会では、町人の「上町」と士族の「下町」は、生徒だけでなく教員同士の乱闘も発生した。また明治後期から昭和二十年代には、小学校遠足で他町を通過するだけで「他町は憎い」と投石されたという。当時の地域ごとのアイデンティティーと紐帯の強さが反映されたものであろう。
それに加えて喧嘩ねぷた参加者が覆面し、目立たない衣装を着て、互いの顔を見ないようにし、遺恨を実生活まで持ち込まないようにしたことは興味深い。ねぷた自体が、深夜から未明に個性を失った匿名の存在となって参加し振る舞う非日常の祭礼であるという、盆踊りなどとも共通する認識が、市民間に共有されていたのではないか。なおこの参加者の匿名性は、明治末期以降の弘前の喧嘩ねぷたに、市外から野次馬や飛び入り参加者が集まってくる現象につながり、喧嘩の激化を招いた。このように喧嘩ねぷたが、町組という地縁集団を核としながらも、無縁の不特定多数の人々が参加し、祭りを行う側と見物客が自由に移行しあう構造を帯びていたことは、昭和50年代以降の観光化が進んだ青森ねぶたや、そのカラスハネト問題、そして日本各地のフリー参加スタイルのお祭りとも類似し、それらの嚆矢とも考えられよう。
そして二つ目の継承要素は、喧嘩が本当の戦争ではなかったということである。近世の喧嘩口論は、真剣だけではなく、木刀、鳶口、棒という簡便な武装であり、実際のいくさより低いレベルの武装であったと推測される。近代の喧嘩ねぷたも、進路を巡る口論から投石、リーダーが見栄を切り、乱闘という一定の手順を踏むことや、当事者達が喧嘩目的は殺傷ではなく、相手ねぷたの破壊だったとコメントしているとおりに、武装のわりには死傷者が少なく、敵集団が壊滅以前に四散すれば喧嘩は収束となったこと。喧嘩前に情報が流されて市民の多くが避難したことなどから、生死をかけた戦争ではなく、ある様式を伴った擬戦的行為として伝承されてきたのではなかろうか。
三つ目の継承要素は、ねぷたが他町を練り歩くことである。次回それを取り上げたい。
(青森県立郷土館 小山隆秀)
出典=毎日新聞青森版 平成23年7月28日(毎日新聞社許諾済み)