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喧嘩するねぷた ねぶた 第5回「明治・大正・昭和(2)」

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↑「弘前ねぷたの喧嘩」((竹森節堂「ねぷた風物詩」昭和41年作、弘前市立博物館蔵)」



 弘前ねぷたでは、確認できる範囲でも享保13年(1728)から昭和9年(1934)までの約200年間、毎年のように喧嘩が発生していた。これは近世の「喧嘩口論」が、近代の「喧嘩ねぷた」(または「ねぷた喧嘩」)へと継承された伝統的習俗であったことを物語る。

 近代の喧嘩ねぷたを記録した先学に船水清、大條和雄、笹原茂朱などがいる。特に笹原は近代の新聞記事をもとに、体験者本人への聞き取り調査を行った。当時の記憶が急速に失われている現在、その詳細な報告は今後の研究において重要な意義を持つ。それによれば、突発的な騒乱と思える弘前の喧嘩ねぷたには、実は一定の様式と社会的背景があった。

 まず喧嘩の多くは、ねぷた期間後半か最終日旧暦七月七日ナヌカビの深夜から未明にかけて発生している。喧嘩には軽量で機動性が高い小型の扇灯籠が多用され、生首の絵が好まれたという。近代初頭のねぷたは合同運行が無く、市中を自由運行していたため、路上で他組に遭遇した際、互いの進路を巡る口論が始まる。

 進路争いは偶発的に発生する場合が多かったが、明治後期になると、斥候や別働隊を使い、戦略を立てて急襲するなど初歩的な戦術を用いた接近もあったという。遭遇後まもなく宣戦布告でもある投石が発生し、武器による乱闘へ展開するのが一般的であった。武器としては、士族層が刀剣類、木刀、鉄扇等を使ったが、町人層は竹槍、樫の棒、棍棒、戸板を、職人は鳶口、金づちなどを、鍛冶屋は鉄屑などというように、それぞれの暮らしと生業の道具を持ち出したという。

 おおむね闘争は死者を出す前に、ねぷた本体の破壊で収束し、翌日は遺恨を残さずに社会生活に復帰する暗黙の了解があり、互いに頬被り等で覆面し、鉄鍋をかぶったり、闇で目立たない色の絣などを着たという。その一方で、ときには名乗りなどの行為もあったらしく「喧嘩師」と呼ばれるリーダーの采配ぶりが、実社会での人物評価の基準になった。

 以上のような喧嘩ねぷた行為の詳細は、ねぷた絵師竹森節堂画「ねぷた風物詩」と一致しており、絵の左隅に、大正期に出現した野次馬が描かれていることから、竹森自身が当時の実体験をもとに描いている可能性が高い。

 喧嘩ねぷたの背景には、城下町弘前の特殊性があったという。つまり町人、職人が住む「上町(うわまぢ)」と士族の「下町(したまぢ)」という、近世以来の身分ごとの居住地同士の対立感情があり、さらに近代初頭に設立が流行した撃剣道場同士の対抗意識が加わっていたというが、その詳述は回を改める。
(青森県立郷土館 小山隆秀)

出典=毎日新聞青森版 平成23年7月21日(毎日新聞社許諾済み)
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by aomori-kyodokan | 2011-07-24 16:24 | 喧嘩するねぶた・ねぷた | Comments(0)
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