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青森県立郷土館ニュース

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喧嘩するねぷた ねぶた 第4回「明治・大正・昭和(1)」

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↑「弘前ねぷたの喧嘩」((竹森節堂「ねぷた風物詩」昭和41年作、弘前市立博物館蔵)」




 旧暦7月7日はねぷたの最終日ナヌカビといわれ、水辺に流す日であった。前回は弘前ねぷたが18世紀後半以降、弘前城下の町人自治機能拡充と藩規制の相克から、都市祭礼化が進み、近現代の行事の基本骨格が形成されたことを述べた。そして近世の「喧嘩口論」習俗も近現代へ受け継がれた。明治から昭和初期の弘前ねぷたでは、深夜に武装した青壮年達が、進路争いを発端としてねぷた本体の破壊または争奪を巡って激しい投石や乱闘を行っていた。当時の新聞記事がそれを記す。

 「例年とも侫武多(ねぶた)以前には大げんかを仕でかす(ママ)こと、弘前に例多きことなるが、このごろ処々方々にてけんかを始め時々殺気を含むことさえあり。中にもこのごろの夜のことなりたるが新町、茂森町の若者連合して侫武多をかつぎ出し鍛冶町において鍛冶町若者連と接戦におよび、中には刀を振るうて戦いしもありて腕を切らるるもの、頭を切らるるもの四、五人におよべり、その他負傷者も互いに多かりしとのことなるが、その筋にても十分(ママ)ご注意ありたきことどもなり。」(「東奥日報」明治23年8月14日)「一昨夜十時頃、仲町方面のねぷたは、百石町より土手町に出て松森町まで進軍して帰りがけ、竹内旅館まで引っ返せし折しも、代官町のねぷたは背面より突撃し、ここに一場の修羅場を演出したるが、すわ喧嘩というや逃げ遅れし見物人中、背中を斬りつけられしは(中略)手を負傷せしよし。負傷者は土手町の松井医院、東長町の安藤医院にて応急手術をほどこせしが、見物人のめった切りとはずいぶん血迷った喧嘩師もあったものなり。」(「弘前新聞」明治42年8月22日)

 このような弘前ねぷたの喧嘩は、明治17年(1884)頃から昭和9年(1934)頃までの約半世紀間、毎年のように地元新聞で報道されている。実録写真は確認されていないが、ねぷた絵師竹森節堂(1896~1970)の絵画は、実録や証言による、参加者の衣装や行為等の詳細とほぼ一致し、当時の実態が推測できる貴重な史料である。それから約70数年を経過した現在、実体験をともなう語りの多くが失われ、伝聞として一部が残る程度だ。「昭和初期、五、六歳のころ、弘前市新坂に喧嘩ねぷたを見物に行ったものだ。夜八時過ぎに坂の上下から、二人で担ぐ扇ねぷたと若者達が現れてぶつかり合い、馬屋町で乱闘になった。夜12時過ぎ「かくまってくれ」と逃げてきた半纏姿の若者を家に隠してやった。」(大正12年生、女性)。無軌道に見える騒動の背景には、様々な慣習や日本各地の習俗ともつながる多くの文化的要素があった。次回からそれらを検証する。
(青森県立郷土館 小山隆秀) 

出典=毎日新聞青森版 平成23年7月7日(毎日新聞社許諾済み)
by aomori-kyodokan | 2011-07-07 16:50 | 喧嘩するねぶた・ねぷた
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