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喧嘩するねぷた ねぶた 第3回「江戸時代の喧嘩口論(2)」

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↑近世後期に大型化した弘前ねぷた(平尾魯仙「津軽風俗画巻」(水沢忠明氏蔵)



 前回は、18世紀の弘前ねぷたで、毎年のように喧嘩口論が発生し、藩が取締りに追われていたことを紹介した。その状況は幕末まで続いたようだ。

 19世紀になると、ねぷたの形態と運行組織に変化が生じた。文化年間、藩規定の三尺を越える大型ねぷたが出現し、やがて細工を凝らすようになる。また一尺以上の大太鼓を叩いて歩く者が出現していた。いずれも藩の取り締まり対象であったが、過激化に拍車をかけたのが弘前藩十代藩主津軽信順(のぶゆき)だった。遊興で藩財政を悪化させた彼は、町全体の「ねふた流し」が終わった夜、急遽自らのためのねぷた高覧を命じたり、豪商金木屋に豪華な「人形祢ふた」を用意させたり、藩が違反として解体させた三尺以上の大型ねぶたを作り直させたりした。各町には華美な作りや、参加台数の増加も命じたという。見物人の評判を呼んだというが藩当局は混乱したであろう。

 信順隠居後、藩はねぷた行事の引き締めを図ったようだが、違反行為は止まらなかった。19世紀半ばの天保期以降の弘前ねぷたには、あいかわらず喧嘩口論をしていたようだが、壮年の婦人もたくさん出るようになっていた。幕末になると「組祢婦た(組ねぷた)」といって壮年者がリーダーとなって、手の込んだ細工をした大型ねぶたを作るために金銭を集め、他町にまで強要に行くことが始まる。さらには各町で二、三十人持ちの「大振りねふた」や子供の「組合ねぷた」が出て、止めに入った町役とトラブルを起こしたという。そして一尺五寸以上の大型太鼓や、ねぷた無しで太鼓だけで打ち歩く者、召使たちによる「付け太鼓」などという太鼓の違反行為が出現していた。これらの違反や喧嘩は弘前城下だけではなかった。文久3年(1863)には黒石町でネブタ同士が投石、鳶口や脇差を用いた喧嘩が発生し、慶應3年(1867)には青森新町と安方の町人のネブタ同士が乱闘をしている。

 同時代に、藩が各町組に分担させた八幡宮祭礼が衰退していったのとは対照的に、民衆が自発的に行なっていたねぷた行事が隆盛していったことは興味深い。その背景には、18世紀後半以降、弘前城下の町人町の自治的機能が拡充していった社会があったという。また、八幡宮山車の形態が、ねぷたの造作へ影響を与えたという説もある。

 このように弘前のねぷたは、藩の規制を越えた、民衆による違反行為と流行によって、一人持ちの子供の灯籠から、大勢で費用を集めて大型ねぷたを作って運行する都市祭礼へと変化し、それが近現代のねぷた行事の基本骨格となったのである。
(青森県立郷土館 小山隆秀)

出典=毎日新聞青森版 平成23年6月30日(毎日新聞社許諾済み)
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by aomori-kyodokan | 2011-06-30 17:11 | 喧嘩するねぶた・ねぷた | Comments(0)
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