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喧嘩ねぷた ねぶた 第1回「負傷者出す 負の歴史」

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↑大正末期の弘前市土手町青年会のねぷた=当時の絵はがきより



 青森県を代表する伝統行事ねぶた・ねぷた祭りは海外でも有名となり、毎年多くの観光客で賑わう。しかしかつて弘前のねぷたは、毎年激しく乱闘し死傷者を出していた。これは一般に「ねぷた喧嘩」と呼ばれ、喧嘩するねぷたを「喧嘩ねぷた」という。

 例えば大正8年8月2日の弘前新聞は、弘前市内の仲町と松森町によるねぷた喧嘩を伝えている「仲町は、四ツ角附近に侫武多(ねぷた)をおき、双方鬨の声をあげて、津軽館の横丁橋を近くして、暗がりに入り乱れ、木太刀竹槍を手にして、一撃一退約二時間にわたりて格闘をなせるが、松森町は手当たり次第に石を飛ばし、物凄き光景となり、此間双方に多数の負傷者を出し、又附近一帯十重二重となりし見物人にして、落下せる石に当たりし者あり、(中略)狼狽する中、誰れ彼れの差別なく、木太刀にて打たれる者多数あり、附近の硝子戸は、投付けたる石に粉砕されしが、かくて一時過ぎに至り、双方ようよう陣を引きたり」

 このようなねぷた喧嘩には、仲町生まれの祖父秀雄(明治37年生)も参加し、私はよく聞かされた「大正初期、子どものころ、ワレ(我)は、仲町の人を中心とした剣道場「北辰堂」の先輩たちのねぷたに混じって喧嘩に行った。消火用に使うササラの芯に竹槍を仕込んで持っていく。黒い箱のような担ぎねぷたを数名で持って歩き、敵にとられないよう、ねぷたを先に逃がしてから喧嘩する。鍛治町では屋根石をバラバラと投げつけられ、恐ろしくて闇の小路を走った。」

 当時、喧嘩するねぷたの扇燈籠には生首が描かれ、町道場の若者達は鉢巻を締め、袴を股立ちに取り、木刀、竹槍、真剣などで武装して付き随った。一方で目立たない色の着物を着て、頬被りで覆面をする者もあった。定まった運行コースはなく、市中を自由に徘徊し、他のねぷたと出会えば、進路を巡って投石から乱闘へと発展した。

 「昭和初期、子どもの頃、弘前市新坂にねぷた喧嘩を見物に行ったものだ。夜八時過ぎになると坂の上と下から、二人で担ぐ扇ねぷたと若者達がやってきてぶつかり合い、坂下の馬屋町で乱闘となった。夜十二時過ぎ、半纏姿の若者が「かくまってくれ」と逃げてきたので、家の中にかくまってやった。朝方に帰っていった」(弘前市、大正12年生、女性)

 いずれも調査で聞いた「ねぷた喧嘩」の実体験である。これは城下町弘前市特有の習俗とされてきたが、筆写の調査では、黒石市、青森市、五所川原市、深浦町、平内町、藤崎町、旧岩木町、旧浪岡町、旧木造町など津軽各地で、ねぷた・ねぶたの喧嘩体験談を確認している。

 従来「ねぷた・ねぶたのルーツは七夕や眠り流しにある」とされてきた。しかしその視点のみでは、祖父達が体験した喧嘩するねぷた・ねぶたの姿を伺い知ることができない(拙論「争うネブタの伝承」)。かつてのねぷた・ねぶたの喧嘩はいつ失われて、どのように現代のねぷた・ねぶた祭りへとつながってきたのか。次回から探っていく。
(青森県立郷土館 小山隆秀)

出典=毎日新聞青森版 平成23年6月16日(毎日新聞社許諾済み)
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by aomori-kyodokan | 2011-06-24 16:43 | 喧嘩するねぶた・ねぷた | Comments(0)
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