「稲生物怪録」を説明文入りで再編集してみました。こちらの方が見やすいと思います。
以下に、関連論考を掲載しますので、理解の参考にしてください。
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異界探求と津軽の国学
〜平尾魯仙筆「稲生(いのう)物怪録(もののけろく)」とその周辺
本田 伸(青森県立郷土館)
○平田篤胤と津軽の国学
天保14年(1843)閏9月、国学の巨人平田(ひらた)篤胤(あつたね)は郷里の秋田で死去した。養子の銕胤(かねたね)は江戸の私塾「気吹舎(いぶきのや)」(伊吹乃屋(いぶきのや))を引き継ぎ、平田派国学の流布に努めた。経営の才に優れた銕胤のもと、塾勢は拡大した。平田家の「門人帳」によれば、入門者は明治9年(1876)までに4419人を数え、その居住地は全国各地に及んでいる。青森県の関係では、安政四年(1857)2月に入門した鶴舎(つるや)有節(ありよ)の例が最も早い。有節はそれ以前から平田家と接触していたようで、安政3年の平田家「金銭出入覚」(国立歴史民俗博物館蔵平田文書)にも名前が見えている。
鶴舎(鶴屋)有節は本名を武田乙吉という。向学心が強く、若い頃から俳諧・書法・漢籍を学んだ。五十路目前に平田門を叩き、親友の平尾魯仙(魯僊)と語らって国学の研究サロンを開いた。江戸の下沢(しもざわ)保躬(やすみ)に「師ハ誠にえらふへきもの」と書き送ったように、平田家への中元や歳暮を欠かさず、書籍代金は常に多めに前渡しする熱心な門人となった。
有節らはいわゆる没後(ぼつご)門人(もんじん)で、生前の篤胤とは面会していなかった。万延元年(1860)11月と推定される銕胤書簡には「先人肖像の儀、厚く御悦下され満足いたし候」とあり、平田家が求めに応じて篤胤の肖像画を描かせ、有節らがそれを喜んだ様が見てとれる。有節らは、平田家を通じて全国の情勢を知った。ペリーの再来も、コレラの流行も、銕胤からの情報として津軽にもたらされた。
○「稲生物怪録」と平田篤胤
当館所蔵の八木橋氏旧蔵文書の中に銕胤から有節に宛てた書簡が数多く見受けられ、有節が多くの篤胤著書を平田家に発注していた事実が明らかになっている。津軽の国学者の多くは江戸に出ることなく、平田家から送られてくる書籍によって学問に励んだのであり、一種の通信教育が行われていた。平田家は有節らに篤胤著書の価付((あたいづけ )価格表)を示し、注文に応じて写本を作る態勢を取った。その中に「稲生物怪録」の書名がある。
「稲生物怪録」は、備後国三次(みよし)藩士の稲生(いのう)武太夫(幼名平太郎)が語った妖怪体験を、柏正甫が筆記したものである。それによれば、寛延2年(1749)7月、肝試しによって妖怪の怒りを買った平太郎は、30日の間、妖怪から様々な嫌がらせを受ける。しかし、次々に現れる化け物を退けたことで魔王の一人山ン本(さんもと)五郎左衛門からその勇気を称えられる、という筋立てである。正甫の筆記録は天明3年(1783)に完成したが、人目に触れる機会はなかった。これを寛政11年(1799)、●々斎竹能なる人物が許されて筆写し、以後、多くの写本のベースとなった。
現世と幽界・冥界の関係を探求し続けた篤胤にとって、「稲生物怪録」の世界は魅力的に映ったに違いない。文化3年(1806)に伝手(つて)を頼って写本を入手したが、文字の間違いなどが多かったため、同八年、大野均和に命じて新たな写本を作らせた。文政3年(1820)には、友人の屋代(やしろ)弘賢(ひろかた)から絵入りの「稲生平太郎物語」を借り受けている。
篤胤の死後、養子の銕胤は事件の舞台である三次に弟子を派遣し調査に当たらせた。銕胤は篤胤が遺した稿本をベースに、新たな研究成果を加えた決定版を出版する計画を立てていたようで、安政6年(1859)12月には、上木用の原稿を版元に預けた。ただし、実際に板木になったかは不明である。
○「稲生物怪録」と平尾魯仙
今回展示するのは、東北大学付属図書館狩野文庫本と、弘前市立博物館本の2点である。狩野文庫本は、初の絵入り本とされる「稲生平太郎物語」の系統に属するものである。
一方、弘前市立博物館本は、有節の国学研究サロンのメンバーでもある今村(いまむら)真種(みたね)(今村要太郎)が平尾魯仙に挿絵を依頼し、1冊に仕立てたものである。巻末にある真種の述懐によれば、安政6年、真種は銕胤から「稲生物怪録」を入手したが、同書には文章だけで挿絵がなかった。そこで明治3年(1870)9月、「原書の意を採りて其形状を画かきてよ」と魯仙に依頼し、その後、真種が文章を書き入れるなどして、明治18年11月に完成を見たのである。
弘前市立博物館本は、「稲生平太郎物語」とくらべて、全体の構成や挿絵の構図が明らかに異なる。また、挿絵に数行のキャプションを入れるのは、魯仙作品によくあるやり方である。魯仙はおそらく「稲生平太郎物語」を見ていない。しかし、奇譚・怪異譚の収集や珍品・奇品の書写に余念がなかった魯仙にとって、文章から想像して挿絵に仕立てていく作業がさほど困難であったとは思えない。また、巷では鳥山石燕や葛飾北斎らによる妖怪画や錦絵の類が出回っており、そこから妖怪のイメージについてヒントを得た可能性もあり得よう。いずれにせよ、弘前市立博物館本は、これまでにない新タイプの「稲生物怪録」と位置づけて良いのではなかろうか。
該博な知識を称えられた魯仙には多くの著作があるが、なかでも、幽界探求の書として知られるのが、「幽府新論」である。慶応3年(1767)正月、魯仙は同書の刊行を企図し、草稿を平田家に送って論評を求めた。同年9月、銕胤(かねたね)の子延胤(のぶたね)は魯仙に書簡を送り、「興味深い書である」と感想を述べた上で「日食・月食は凶事があるという天の戒めと言われるが、そうではないので、この部分は再考した方がいい」とアドバイスしている。その後、延胤が急逝したこともあり、「幽府新論」の出版は沙汰止みとなった。魯仙は草稿の返却を求めて平田家に書簡を送ったが果たせず、魯仙の死とともに、草稿は宙に浮いた形となった。弘前市立弘前図書館蔵の自筆本「幽府新論」は、全8巻のうち巻一から巻四までを欠いているが、近年の調査で、巻一・巻二については、平田門下である井上頼圀の旧蔵書を収める無窮会神習文庫の所蔵となっていることが確認された。しかし、巻三・巻四についてはなお所在不明である。
○参考論文・文献
森山泰太郎「平尾魯僊」(弘前市立図書館『兼松石居・平尾魯僊・秋田雨雀』 1971)
谷川健一編『稲生物怪録絵巻—江戸妖怪図録』(小学館 1994)
沼田哲「鶴屋有節宛平田銕胤書簡四通をめぐって」(『弘前大学國史研究』100 弘前大学国史研究会 1996)
荒俣宏・米田勝安『よみがえるカリスマ 平田篤胤』(論創社 2000)
荒俣宏『平田篤胤が解く稲生物怪録』(角川書店 2003)
『青森県史資料編 近世 学芸関係』(青森県 2003)
『明治維新と平田国学』(国立歴史民俗博物館 2004)